- ナッサウ=ディレンブルク伯 Graaf van (Graf von) Nassau-Dillenburg, 州総督 Stadhouder(フリースラント・フロニンゲン・ドレンテ), 「我らの父」 ‘Us Heit (Onze Vader)’
- 生年: 1560/3/13 ディレンブルク(独)
- 没年/埋葬地: 1620/5/31 レーワルデン(蘭)/レーワルデン・大教会
生涯
ヤン六世の長男。1576年、弟ゲオルグ、フィリップス、従弟マウリッツとともに1年間ハイデルベルクで勉強し、翌年10月、アントウェルペンにあるウィレム沈黙公の屋敷に父ヤン、弟フィリップス、従弟マウリッツとともに移り住みました。17歳のウィレム=ローデウェイクはさっそく沈黙公のもとで働き、翌年にはイングランド大使に同行してイングランドへ行ったり、さらに翌年にはウィレムの軍の騎兵将校となるなど、外交・軍事両面で伯父を助けています。ウィレムの死の直後は、フリースラント州総督に任命され、伯父の職務を継ぐことになりました。
沈黙公の存命中から、彼の次女アンナとは恋仲でした。厳格なカルヴィニストである父ヤンは、いとこ同士の交際に強硬に反対していましたが、逆に沈黙公やアンナの弟マウリッツはこの交際を後押ししていたようです。ようやく許されて、1587年にフリースラントのフラネケルで結婚しましたが、半年ほどでこの結婚は、流産によってアンナが死亡するという悲劇的な最後を迎えてしまいました。この後も、ウィレム=ローデウェイクはアンナを想い続けて生涯非婚を通しましたが、同じ非婚でも、従弟のマウリッツとは正反対な理由です。いずれにしても、1592年のクーフォルデンの攻囲戦で6ポンド砲の弾が直撃して片足が不自由になったため、身体的にも再婚は難しかったかもしれません。常に杖をつき、移動は馬に乗らないと難しかったようです。
1589年、ウィレム=ローデウェイク、その弟ヤン七世、マウリッツは本格的に軍制改革に着手し始めました。詳細は「オランダの軍制改革」参照。かといって、3人で仲良く協力して、というよりも、三者三様で理論も方法論も違っていたため、どちらかというとそれぞれの得意分野の持ち寄り型だったようです。ウィレム=ローデウェイクに関しては、1594/12/14付のマウリッツ宛の手紙の中で、「カウンターマーチ(反転行進射撃)」について初めて述べられています。(『長篠合戦の世界史』にもその書簡の画像が載っています)。もともと古典に造詣が深く、軍制改革でもどちらかというと戦術面での立案者といえます。
共和国軍全体の中ではいちおうNo.2(フレデリク=ヘンドリクが長じてからはNo.3)の地位ですが、州単位でいえば同じスタットハウダーなので、総司令官のマウリッツと同列として扱われました。マウリッツは軍事行動の前には必ずウィレム=ローデウェイクに意見を求めており、意見だけではなく、アドバイザーとしての戦場への同行もかなり執拗に依頼しています。
ウィレム=ローデウェイクはハーグではなく、州総督を務めるフロニンゲンやレーワルデン(この2つの都市も現在の快速で1時間くらいかかる距離です)に住むことが多く、しかも、徴兵・軍事訓練・国境警備案件にともなう各議員たちとの折衝や、議会への臨席でかなり多忙だったようです。また、十二年休戦条約の交渉に際しても、マウリッツが交渉への参加を一切拒否したため、ウィレム=ローデウェイクが軍部の代表として交渉に臨んでいます。条約への署名もウィレム=ローデウェイクです。
文化の振興にも貢献し、州総督となった翌年の1585年にフラネケルにアカデミーを、1614年にはフロニンゲンに大学を設立しています。また、いつも回りに学者や詩人などの文化人を配していました。おそらく父ヤン六世以上に改革派(のちにはさらにその中でも厳格派)に傾倒しており、神学について語らせると非常に長いです。そのこともあり、性格は非常に清廉で生真面目だったようで、弟たちや従弟の乱れた生活態度(おもに酒と博打と女性関係)に小言を言うのはいつも彼の役目でした。弟たちや甥たちのオランダでの教育もみましたが、やはり身内には厳しく、さぼった時のダメ出しの仕方は半端ありません。反面、彼らが手柄を立てたときのベタボメっぷりも半端ないので、誰からも頼りにされています。いかにも長男気質そのものといえるでしょう。
普段は冷静で温厚な人物ですが、ニーウポールトの戦いを決定した会議の席上では、議員たちに対して激昂したといわれています。さらに1609年の休戦以降は、マウリッツとの関係も徐々に冷却していったとする歴史家もいます。が、1617年からのクーデターの時期に両者間で交わされた、互いの協働を確認する書簡の量を見る限り、とても疎遠や不仲とは思えません。単に年齢的・体力的・距離的な要因で、ウィレム=ローデウェイクがハーグに頻繁に来られなくなっただけではと考えられます。(彼は50歳を過ぎた頃から病気がちになっていました)。繰り返しとなりますが、ウィレム=ローデウェイクが厳格なカルヴァン派であり、中でもホマルス派に属していることは広く知られていました。宗派対立の最終局面で、彼と共にミサに出席することで、マウリッツはホマルス派を選択したことをアピールしています。
1620年、マウリッツに手紙を書いている途中に脳卒中の発作で倒れ、数日後に亡くなりました。死後、彼の秘書によって伝記が書かれています。
リファレンス
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