ウィレム沈黙公には7人の実の妹がいました。それぞれドイツの貴族に嫁いでおり、その息子たち(ウィレムにとっては甥)が八十年戦争に関わってくる場合も少なくありません。但し、彼女たち自身の人となりや伝記については、あまり詳しく伝わっていない場合も多いようです。
リファレンス
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
- Digitaal Vrouwenlexicon van Nederland Maria van Nassau
- Digitaal Vrouwenlexicon van Nederland Catharina van Nassau
マリア・フォン・ナッサウ Maria von Nassau
- ナッサウ伯女 Gräfin von Nassau, Katzenelnbogen, Vianden und Diez
- 生年: 1539/3/18 ディレンブルク(独)
- 没年: 没年/埋葬地: 1599/5/18 ウルフト/スヘーレンベルフ墓所(蘭)
生涯
ウィレム沈黙公の次妹。ウィレム四世ファン・デン=ベルフと1556年に結婚。兄がネーデルランドで「反乱」を起こし、いったん故郷のディレンブルクに亡命してきた際、彼女も夫や子どもたちと共に逃れてきたようで、長兄ウィレム・次兄ヤン六世の息子たちと、自分の息子たちを一時期一緒に育てていたようです。
長兄ウィレムの死後、夫と息子たちが反乱軍からスペイン軍に転向した際、それに最も心を痛めたのは彼女でした。ファン・デン=ベルフ家の居城のあるウルフトに住みました。子沢山で、息子だけで8人居ます。
サイト内参考記事: ファン・デン=ベルフ伯兄弟
エリーザベト・フォン・ナッサウ Elisabeth von Nassau
- ナッサウ伯女 Gräfin von Nassau, Katzenelnbogen, Vianden und Diez
- 生年: 1542/9/25 ディレンブルク(独)
- 没年: 没年/埋葬地: 1603/11/18 ディレンブルク(独)
生涯
ウィレム沈黙公の四妹。1559年にゾルムス=ブラウンフェルス伯コンラッドと結婚。彼女自身については全くといっていいほどわかりません。オランダで軍人として戦った息子が何人かいますが、中でも五男エルンストはナッサウ伯マウリッツと年齢も近く、その若い死まで右腕として存在感を示していました。
長男のヨハン一世アルプレヒトの娘、エリーザベトにとっての孫娘がアマーリア・フォン・ゾルムス=ブラウンフェルスです。彼女はのちにウィレム沈黙公の三男オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの妻となって、現在のオランダ王家の始祖のひとりとなります。
カタリナ・フォン・ナッサウ Katharina von Nassau
- ナッサウ伯女 Gräfin von Nassau, Katzenelnbogen, Vianden und Diez
- 生年: 1543/12/19 ディレンブルク(独)
- 没年: 没年/埋葬地: 1624/12/25 アルンシュタット(独)
生涯
ウィレム沈黙公の五妹。愛称ケイテ。1560年、シュヴァルツブルク伯ギュンター四十一世と、数年にわたる恋愛を実らせたうえ結婚。夫のギュンターは皇帝やザクセン選帝侯とのパイプの強い帝国諸侯でしたが、ネーデルランドで「反乱」が起きた後もウィレムとの良好な関係を保ち続けました。が、生来の喧嘩っ早さから、皇帝や他の諸侯との関係は徐々に良くなくなっていったようです。1570年代後半から、夫妻はウィレムとともにアントウェルペンに住むようになり、ギュンターは1583年に亡くなりました。カタリナは、夫の死後兄の家に身を寄せます。
1584年7月10日の長兄ウィレムの暗殺の際、彼を最も近くで看取ったのが彼女でした。カタリナ自身には子どもがいなかったため、その後はウィレムの娘たちのうち、自分の名づけ子であるカタリナ=ベルギカを引き取って夫の領地に戻り、その結婚まで約12年間養育しました。1593年に一度だけオランダに渡り、ウィレムの長女マリアと次男マウリッツの間で争われていた遺産相続の調停を試みましたが、これはうまくいかなかったようです。さらにその後は領地で図書館の整備などに務めました。
マグダレーナ・フォン・ナッサウ Magdalena von Nassau
- ナッサウ伯女 Gräfin von Nassau, Katzenelnbogen, Vianden und Diez
- 生年: 1547/12/15 ディレンブルク(独)
- 没年: 没年/埋葬地: 1633/5/16 エーリンゲン(独)
生涯
ウィレム沈黙公の七妹。1567年にホーエンローエ=ヴァイカースハイム伯ヴォルフガング二世と結婚。ヴォルフガングは弟のフィリップやアルプレヒトとともに、ウィレム沈黙公に従って初期のネーデルランドの「反乱」にも参加したようです。(ウィレム→マウリッツ時代を通じて軍人としてもっとも活躍するのは、次弟のホーエンローエ=ノイエンシュタイン伯フィリップ)。また、彼らの息子のフィリップ=エルンストも、叔父のフィリップを頼ってオランダに渡り、長らくオランダで軍人として過ごし最後は連隊長にまでなりました。
マグダレーナは非常に教養の高い女性で、実家の母親が経営していたような理想的な家政を実現していました。特に薬学について詳しく、自らハーブガーデンを作り、調剤をおこなっていました。また、夫ともども金銭に執着しない性格で、領地の貧しい人々への、金銭・食べ物・薬剤の施しを惜しみなくおこなっていたそうです。