ナッサウ=ジーゲン伯たち(ヤン七世の息子) Graf von Nassau-Siegen

SI Unteres Schloss Fuerstengruft Innen 1 Ludorff 1897

ナッサウ=ジーゲンの墓所 In Wikimedia Commons ヤン七世本人を含み、その息子5名など総勢31名が埋葬されている

ナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世とその二番めの妻マルガレータ・フォン・ホルシュタイン=ゾンダーブルクの間の息子たちのうち、いちばん上のヨハン=マウリッツを除いた弟たち。(一番めの妻マグダレーナ・フォン・ヴァルデックとの間の息子たちは個別ページを設けています)。ヤン七世の子女は、夭折した子供も含めると、総勢25人になります。ここでの長男・次男等の書き方は、成人した男子のみを数えました。

集団肖像画のまとめはこちら。ウェイブラント・デ・ヘーストの集団肖像画

リファレンス

  • NDB” Georg Fritz Ludwig
  • NDB” Heinrich

ゲオルク=フリッツ=ルートヴィヒ・フォン・ナッサウ=ジーゲン Georg Fritz Ludwig von Nassau-Siegen

1606 Georg Friedrich Ludwig zu Nassau-Siegen

Unknown (before 1623) In Wikimedia Commons

  • ナッサウ=ジーゲン伯/侯 Graf/Fürst von Nassau-Siegen、ベルヘン=オプ=ゾーム知事 Gouverneur van Bergen op Zoom(1658-)
  • 生年: 1606/2/23 ディレンブルク(独)
  • 没年/埋葬地: 1674/10/2 ベルヘン=オプ=ゾーム(蘭)/ジーゲン(独)

生涯

ナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世の六男。1627年にオランダ軍歩兵中隊長、1633年に騎兵中隊長となり、1637年にいったん歩兵に大隊長として戻った後、1642年からは連隊長となります。オランダ軍もこの頃には規模も拡大し、ナッサウ家の人間でも、おいそれと出世が早いわけではなくなるようです。父ヤン七世の死後は、異母兄のヤン八世(カトリックに改宗し皇帝軍の将軍となった)がナッサウ=ジーゲンを治めていましたが、さらにその死後、ヤン八世の長男ヨハン=フランツ=デジデラトスと争い、ウェストファリア条約後にナッサウ=ジーゲン伯(1664年以降は侯に昇格)を分割統治することになりました。

1647年にポルトガル王子マヌエルとエミリア・ファン・ナッサウの五女マウリティア=エレオノーラと結婚。子供は女子ばかりだったため、ナッサウ=ジーゲン侯はいったん兄のヨハン=マウリッツ、その後弟ハインリヒの長男ウィルヘルム=モーリッツが継ぐこととなります。

1671年にデンマーク王室からエレファント騎士とされました。知事職にあったベルヘン=オプ=ゾームで亡くなっていますが、どうやら戦死のようです。

ヴィルヘルム=オットー・フォン・ナッサウ=ジーゲン Wilhelm Otto von Nassau-Siegen

Willem Otto van Nassau-Siegen

Attributed to Wybrand de Geest (1635-1640) In Wikimedia Commons 集団肖像画から一部を切り取ったもの

  • ナッサウ=ジーゲン伯 Graf von Nassau-Siegen
  • 生年: 1607/6/23 ディレンブルク(独)
  • 没年: 1641/8/14 ヴォルフェンビュッテル(独)

生涯

ナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世の七男。詳細はわかりませんが、スウェーデン軍の将軍にまでなったようです。ヴォルフェンビュッテル近郊にて戦死。未婚。

ハインリヒ・フォン・ナッサウ=ジーゲン Heinrich von Nassau-Siegen

1611 Heinrich

Unknown (17th century) In Wikimedia Commons

  • ナッサウ=ジーゲン伯/侯 Graf/Fürst von Nassau-Siegen、フルスト知事 Gouverneur van Hulst
  • 生年: 1611/8/9 ジーゲン(独)
  • 没年/埋葬地: 1652/10/27 フルスト(蘭)/ジーゲン(独)

生涯

ナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世の八男。ハインリヒ以降は、父ヤン七世がナッサウ=ジーゲン伯を継いだ後に産まれたため、出身地がディレンブルクではなくジーゲンになっています。他の兄弟同様にオランダで軍務に就き、北ホラント連隊を率いました。歩兵連隊長となったのは遅く1647年。オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの死亡直後のため、だるま落とし的な人事と思われます。

1638年、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの大使として、フランス王子(のちのルイ十四世)誕生の祝いにパリに駆けつけているようです。他にも大使としてストックホルム、ワルシャワ、ウィーンに赴任しています。1645年のフルスト攻囲戦ののち、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクによってフルスト知事に任命されています。その屋敷で亡くなっているので、おそらく戦死ではありません。

1649年にデンマークのエレファント騎士。兄たちに男子の跡継ぎが居なかったため、長男ヴィルヘルム=モーリッツが、ナッサウ=ジーゲン侯のプロテスタント分家を継ぐこととなります。

クリスティアン・フォン・ナッサウ=ジーゲン Christian von Nassau-Siegen

Christiaan van Nassau-Siegen

Attributed to Wybrand de Geest (1635-1640) In Wikimedia Commons 集団肖像画から一部を切り取ったもの

  • ナッサウ=ジーゲン伯 Graf von Nassau-Siegen
  • 生年: 1616/7/16 ジーゲン(独)
  • 没年: 1644/4/11 デューレン(独)

生涯

ナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世の九男。詳細不明。ですが、オランダ軍ではなく、皇帝軍で軍務に就いていました。1636年皇帝軍騎兵中佐、1642年皇帝軍騎兵大佐。三十年戦争中に戦死。

ヨハン二世エルンスト・フォン・ナッサウ=ジーゲン Johan Ernst II von Nassau-Siegen

Johan Ernst van Nassau-Siegen 1618-1639

Gerard van Honthorst (1636) In Wikimedia Commons 集団肖像画から一部を切り取ったもの

  • ナッサウ=ジーゲン伯 Graf von Nassau-Siegen
  • 生年: 1618/11/18 ジーゲン(独)
  • 没年: 1639/11/23 サン・サルバドル(ブラジル)

生涯

ナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世の十男。詳細不明。長兄のヨハン=エルンストが病死した直後に生まれた男子のため、同じ名前(二世)をつけられたものと思われます。21歳で戦死。海軍将校として旗艦「アルクマール」に乗っていたとのこと。時期的に、実兄のヨハン=マウリッツとともに西インド会社の仕事でブラジルに渡っていたのでしょう。