- オランイェ公 Prins van Oranje, ナッサウ伯 Graaf van Nassau, 州総督 Stadhouder(フリースラントを除く6州)
- 生年: 1626/5/27 ハーグ(蘭)
- 没年/埋葬地: 1650/11/6 ハーグ(蘭)/デルフト・新教会
生涯
フレデリク=ヘンドリクとアマーリアの長男。早くも3歳の頃に、まずはオーフェルエイセル州によって父親の州総督職を世襲するという決議がなされます。前職の在職中にあらかじめ次代を決定する、という概念はそれまでなかったので(従来は前職が空いた時点で選出されるというシステム)、沈黙公以来、「スタットハウダー」の意味合いが徐々に変化してきたことがわかります。
1641年、イングランド国王チャールズ一世の長女メアリと結婚。オランダにおけるナッサウ家の人物が他国の王族と結婚した、最初の例となりました。父のフレデリク=ヘンドリクが結婚したのが41歳なので(もっともこの原因は本人に帰するところが大きいのですが)、15歳での結婚は相当早く、1630年代からはじまるオランイェ家の「王朝的志向」の最も顕著な例ともいえます。
議会派が推し進めたスペインとの和平条約「ミュンスター条約」には、ウィレムも父同様最後まで反対していました。1647年、和約交渉中に父フレデリク=ヘンドリクが病死しますが、その後ウィレムの力だけでは和約への大きな流れを変えることはできませんでした。また、1649年に今度は義理の父であるチャールズ一世がイングランド内戦で処刑されると、妻の兄弟(のちのチャールズ二世やジェームズ二世)を支援したため、ホラント州をはじめとする議会勢力との関係はますます悪くなっていきました。
スペインとの和平を理由にホラント州から軍備削減を提案されたウィレムは、自らの権限低下にもなるとしてこれに反対します。そして1650年、はとこ(のちには義理の弟でもある)のフリースラント州総督ウィレム=フレデリクと諮り、過去に伯父マウリッツがおこなったようなクーデターを強行しました。しかしその途中、ウィレムは天然痘で急死してしまい、クーデターは未完に終わってしまいます。彼の死の8日後、息子のウィレム三世が生まれています。
ナッサウ家の人間らしく軍事への偏向は強かったといえますが、しかし若年だったことと、和平交渉期間とかぶっていたこともあり、実際の従軍経験は必ずしも多くなく、その指導力は未知数のままでした。クーデターに関しても、その軍事的素質を評価する向きと、性急だったとする向きと、評価は分かれているようです。しかしわずか3年の在位の間にも、大使を通じてフランスのマザラン枢機卿とかなり密に交渉をおこなっていたり、なにか事に当たる際には、事前に詳細な覚書を作成してあれこれシミュレートした跡が見て取れ、決して若気の至りと簡単に結論付けることはできません。
いずれにしても彼の死によって、ホラント州を含む主だった州で「第一次無州総督時代」が始まることとなります。