ウィレム=フレデリク・ファン・ナッサウ=ディーツ Willem Frederik van Nassau-Dietz

Willem Frederik van Nassau

Wybrand de Geest (1632) In Wikimedia Commons

  • ナッサウ=ディーツ伯/侯 Graaf/Vorst van Nassau-Dietz, 州総督 Stadhouder(フリースラント、フロニンゲン、ドレンテ), ドイツ騎士団ユトレヒト・バレイ長 Landcommandeur
  • 生年: 1613/8/7 アルンヘム(蘭)
  • 没年/埋葬地: 1664/10/31 レーワルデン(蘭)

生涯

ナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミールの次男。ドイツ騎士団ユトレヒト・バレイがプロテスタント化してからの二代めのバレイ長でもあります。父エルンスト=カシミールはドイツの領地ディーツではなく、オランダのアルンヘムに居を構えたため、息子たちはオランダ生まれのオランダ人といえるでしょう。

他のナッサウ一族の男子同様、オランダ軍に仕官します。が、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクや父エルンスト=カシミールが最も名を挙げたフロールやスヘルトヘンボスの戦いには、若年のため参加していません(給与目的で未成年の1625年に中隊長のタイトルだけ得ています)。1631年に成人すると正式に軍の騎兵中隊長となりましたが、兄や従兄弟たちとくらべ実戦経験に乏しく、まともに軍を率いたのは州総督を継いだ1640年代以降で、第一線級の将校とはあまりいえなかったようです。とはいっても血気に逸る傾向は強く、ウィレム二世のクーデターの際に彼をたきつけていたのは、むしろ一回りも年上のウィレム=フレデリクのほうです。1644年に歩兵・騎兵両連隊長、1648年に騎兵・砲兵両将軍。ミュンスター条約後、1655-60年に共和国軍の元帥ともなっていますが、この時期は第一次・第二次英蘭戦争の狭間でもあり、陸戦もほとんどなかったはずです。

1640年の兄ヘンドリク=カシミールの死後、ナッサウ=ディーツ伯とユトレヒト・バレイ長を継ぎますが、州総督に関してはフリースラントのみで、他の2州の州総督職はオランイェ公フレデリク=ヘンドリクが手にしました。フレデリク=ヘンドリクとその長男ウィレム二世が相次いで亡くなり第一次無州総督時代に入った後、1650年にフロニンゲンおよびドレンテの州総督位を回復します。この経緯から、「ナッサウ本家と分家の争い」を安易に指摘する向きもありますが、この10年の間、また第一次無総督時代以降も、ウィレム=フレデリクはオランイェ家との歩み寄りの努力を続けており、決して「争い」とまではいえないものです。

たとえば1644年頃から、ウィレム=フレデリクはオランイェ=ナッサウ一族の娘との結婚を模索しています。はじめは、エミリア・ファン・ナッサウとポルトガル王子マヌエルの五女マウリティア=エレオノーラ(ナッサウ=ジーゲン伯ゲオルク=フリッツと1647年に結婚)、次にフレデリク=ヘンドリクとアマーリア・ファン・ゾルムスの長女ルイーゼ=ヘンリエッテ(ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ=ヴィルヘルムと1646年に結婚)に狙いを定めますがいずれも失敗。オランイェ公妃アマーリアは上昇志向が強く、子女を高位の貴族と縁組させようとしていたため、一族分家のウィレム=フレデリクのことは歯牙にもかけていなかったようです。最終的にウィレム=フレデリクは、フレデリク=ヘンドリクとアマーリアの次女アルベルティーネ=アグネスと1652年に結婚します。これは、

  • 1650年以降オランイェ=ナッサウ本家の男子が、乳児のウィレム三世ただ一人になってしまっていたこと
  • 1652年にナッサウ=ディーツ伯が「侯」に格上げになることが決定したこと
  • ナッサウ=ジーゲン伯(のち侯)ヨハン=マウリッツの積極的な支持が得られたこと

から、なんとかアマーリアの了承を取り付けることができたためです。

しかしこの状況はウィレム=フレデリクにとっては、その立場をより難しくするものでした。オランイェ本家の2人の寡婦、アマーリアとメアリ・ステュアートからは、アルベルティーネ=アグネスとの結婚後ですら(というか逆に結婚したからこそ)、その野心を疑われ続けていました。ウィレム=フレデリクは議会派のデ・ウイット兄弟とも良好な関係を保つよう尽力していましたが、彼自身が1650年のウィレム二世のクーデターにおける首謀者のひとりだったという過去もあり、常に議会派の監視下に置かれていました。翻ってドイツのナッサウ諸分家は、ちょうどカトリック派とプロテスタント派に真っ二つに分かれており、とても一枚岩とはいえない状態でした。

この状況下で、自らの身の振り方のバランスをとっていく必要のあったウィレム=フレデリクは、必然的に消極的な態度に終始し、要求を抑え続けていかざるを得ませんでした。そのため、共和国全軍の指揮権も副官どまり(最高司令官は空位)とされ、自らが州総督を務める3州の総指令権を得たに過ぎませんでした。もともと性格も細かく(たとえば兵の数をざっくり何千人ではなく10人単位までリストアップしていたり)、計算高い部分もありました。

1664年、第二次英蘭戦争に乗じてミュンスター司教が国境侵犯してきた際、これを打ち破りさらにカウンターアタックをしかけます。が、この遠征の最中、ピストルの手入れをしていてその暴発で致命傷を負ってしまいました。彼の称号と職務の大半は7歳の息子ヘンドリク=カシミール二世に引き継がれることになりますが、若年のため、成人までは妻のアルベルティーネ=アグネスがその後見人となりました。

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