- ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯女、ナッサウ=ディーツ伯妃
- 生年: 1592/6/13 ヴォルフェンビュッテル(独)
- 没年: 1642/1/23 アルンヘム/レーワルデン(蘭)
生涯
ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル侯ハインリヒ=ユリウスの長女。母はデンマーク王女エリサベト。父ハインリヒ=ユリウスがナッサウ家との縁組を願い、彼女が生まれたさっそくその年にナッサウ家に申し入れをしています。その理由により1607年、その前年に父ヤンの遺産分配でナッサウ=ディーツ伯となったエルンスト=カシミールと結婚、結婚式には叔父のデンマーク国王クリスチャン四世も列席しています。ゾフィー=ヘートヴィヒは、領地ナッサウではなく、オランダを活動拠点としていたエルンスト=カシミールに従ってアルンヘムに住みました。何人かの子供に恵まれますが、長じたのは、ヘンドリク一世カシミールとウィレム=フレデリクの2人の息子のみです。
夫のエルンスト=カシミールが戦死した1632年、三十年戦争真っ只中のこの時期、ドイツのナッサウ伯たちは協力してナッサウの領地を戦禍から守ろうと奔走していました。息子たちはオランダ戦役に忙しく、ゾフィー=ヘートヴィヒはドイツに向かい、自ら領地ディーツの代官を務めるようになります。義弟にあたるナッサウ=ハダマール伯ヨハン=ルートヴィヒの影響でカトリックに改宗したのも、皇帝軍との交渉などに利を得るための政治的な意図によるものです。
かつてディレンブルクでヤン六世(ゾフィーにとっては義父)が、ジーゲンでその次男ヤン七世(ゾフィーにとっては義兄)が、ナッサウ家の情報集積センターの役割を担っていましたが、実質的にその役割をディーツのゾフィー=ヘートヴィヒが継いだといえます。息子ヘンドリク一世カシミールを通じて逐一オランダの情報を得て、ドイツの一族内での調整を図っていました。
なお、父が酒乱、兄がアル中(の挙句にお家断絶)、弟が「冒涜的野蛮人」と呼ばれる無法者とは思えないほどに、その治世の評判は高く、スウェーデン宰相のオクセンシェルナにさえ一目置かれていたそうです。長男ヘンドリク一世カシミールが戦死した際も、複数の王妃を含む名だたる君侯たちからお悔やみの手紙を受け取っています。
リファレンス
- “NDB“
- Digitaal Vrouwenlexicon van Nederland Sophie Hedwig van Brunswijk-Wolfenbüttel