- オランイェ公女、ナッサウ女伯 Gravin van Nassau
- 生年: 1556/2/7 ブレダ(蘭)
- 没年/埋葬地: 1616/10/10 ビューレン(蘭)/ビューレン・聖ランベルトス教会
生涯
ウィレム沈黙公の長女。幼少の頃、執政マルゲリータの宮廷に行儀見習いとしてあがっていましたが、父ウィレムのディレンブルク亡命に伴い、ドイツに逃れ、叔父ヤンの家で暮らします。弟マウリッツがハイデルベルクへ留学する際に世話役として一緒についていったり、父のいるネーデルランドへ移ったあとも弟妹の世話に明け暮れました。(その割に、マウリッツとは生涯仲が悪かったようです)。ドイツにいる叔父ヤンに、オランダでの出来事を伝える手紙を頻繁に送っており、連絡役をまかされていたこともわかります。義母のシャルロットとは親友となり、次の義母ルイーズ(ほぼ同い年)ともうまくやっていたようですが、父の亡くなった後はルイーズとは一緒に住まず、ドイツに残した妹のエミリアを引き取り、一緒にビューレン(実母から譲られた領地)で暮らしました。
ドイツに亡命してすぐの1567年頃に、ドイツの軍人フィリップス・フォン・ホーエンローエと知り合い、恋心を抱いたようです。ホーエンローエのあまりの粗暴さから父ウィレムは反対していましたが、1582年にやっと結婚の許可を与えました。しかし、持参金の問題で結婚はなかなか実現にいたりませんでした。さらに父亡き後は、弟マウリッツが強硬に結婚に反対したため(マウリッツとホーエンローエは犬猿の仲で、姻戚となることを嫌ったものと思われます)、実際にホーエンローエと結婚できたのは1595年になってからです。11歳の頃から想い続けて40歳近くなってしまった計算です。その間、従弟のウィレム=ローデウェイクとの結婚話があったり、カトリックの貴族からの求婚もあったりしましたが、すべて断っていました。高齢での結婚となったため、子供には恵まれませんでした。
拉致されていた兄フィリップス=ウィレムがスペインから解放されると、兄と組んで、弟マウリッツ、フレデリク=ヘンドリクの二人と父の遺産を巡って激しく争いました。性格については、「厳格で快活」とするものと「内気で愛嬌がある」と、正反対に書かれたものが存在していますが、個人的には前者のほうがしっくりくる気がしています。
リファレンス
「Dr. Oma」はマリアが主人公の小説です。
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
- Dr. Oma: The Healing Wisdom of Countess Juliana Von Stolberg
- Ditzhuyzen, “Woordenboek”
- Digitaal Vrouwenlexicon van Nederland Maria prinses van Oranje