- ナッサウ伯 Graf von Nassau
- 生年: 1538/1/10 ディレンブルク(独)
- 没年: 1574/4/14 モーケルヘイデ(蘭)
生涯
ウィレム・デ・レイケの三男で、ウィレム沈黙公の三弟。他の兄弟たちと違って生まれてからずっとディレンブルクで育てられてきたため、母ユリアナにも最も可愛がられていたといわれています。長じて長兄ウィレムのもとに渡り、そのまま秘書官となりました。
熱狂的なカルヴィニストとして、「反乱」のごく初期から積極的に関わっています。1565年に少数の貴族たちと「盟約」を結成し、翌年執政のパルマ公妃に「請願書」を提出しました。ベルレーモンから「乞食ども」と言われたまさにその中心人物といえます。周囲からの人望も厚く、交渉術にも長けていました。兄ウィレムとザクセン選帝侯女の二度めの結婚のため、ドレスデンで交渉をおこなったのも彼です。本人は結婚していませんが、女性からの人気も高く、ウィレムの三番めの妻となるシャルロット・ド・ブルボンとの仲も噂されていました。(ウィレムとシャルロットの結婚は多方面から反対に遭いましたが、その理由のひとつにこの噂も挙げられています)。
軍事的な才能も高く、反乱初期に反乱軍側を勝利させたのは、すべてルートヴィヒの率いた軍ばかりです。事実、ウィレム本人が率いた野戦は一度も勝利していません。1568年、四弟アドルフを亡くしたヘイリヘルレーの戦いではなんとか辛勝したものの、その後のイェムグムの戦いではアルバ公の軍に敗走させられました。その後フランスへ転戦し、コリニー提督とともにユグノー戦争で戦功を挙げます。1572年、モンスの奪取に成功し、フランスの援軍コリニー提督と合流を計画していましたが、サン・バルテルミーの虐殺でコリニー提督が殺害されたため、モンスはスペイン側に奪還されてしまいました。
1574年、兄ウィレムの要請に応えてレイデン救援に向かう途中、モーケルヘイデで弟ハインリヒとともに戦死。結局二人の遺体は見つからず、ウィレムが弟たちの戦死を受け入れるまでの苦悩が、ウェッジウッドの『オラニエ公ウィレム』にも描かれています。