ローデウェイク=ヒュンテル・ファン・ナッサウ Lodewijk Gunther van Nassau

Lodewijk Gunther van Nassau

Workshop of Jan Antonisz. van Ravesteyn (1609-33) In Wikimedia Commons

  • ナッサウ伯 Graaf van Nassau
  • 生年: 1575/2/15 ディレンブルク(独)
  • 没年/埋葬地: 1604/9/14 スライス(蘭)/アルンヘム・聖エウセビウス教会

生涯

ヤン六世の六男。ドイツ語読みで「ルートヴィヒ=ギュンター」と書かれることもあるかもしれません。幼少期に母を亡くしたため祖母に育てられ、2つ上の兄エルンスト=カシミールと一緒に短期間スイスで学び、その後長兄ウィレム=ローデウェイクの住むレーワルデンに移り住みます。兄のフィリップスが彼の教育を担当したようです。軍務に就いたのはエルンスト=カシミールより一足遅く、1594年にいったんフランスのブイヨン公の部隊で、兄のフィリップスと共に従軍しました。

オランダ戦線は1595年のリッペ川の戦いが最初です。このとき、兄フィリップス、エルンスト=カシミール、従兄エルンスト・ゾルムスとともに、少数の騎兵で奇襲をしかけようとして失敗。自らも負傷したローデウェイク=ヒュンテルは、河を泳いで渡りひとり逃亡することができましたが、フィリップスとエルンストは戦死し、エルンスト=カシミールは捕虜となってしまいました。

1596年、イングランド友軍の司令官フランシス・ヴィアーの誘いでカディスの海戦に参加。英女王エリザベス一世の寵臣であるエセックス伯ロバート・デヴァルーとも友人となりました。女王は、カディスでのローデウェイク=ヒュンテルの働きを褒める書簡を、直接父のヤン六世宛に送っています。その後、従兄でもあるオランダ軍総司令官ナッサウ伯マウリッツのもと、騎兵大隊長として1597年の東部遠征を皮切りに、1598年から1602年までその機動力を駆使して各地を転戦しました。1600年のニーウポールトでは騎兵を率いるトップとして勝利に貢献し、その他にもスペインのメンドーサ提督を捕虜にしたり、アルプレヒト大公の乗用馬を捕獲したりと、目覚しい働きをみせています。

ちなみにローデウェイク=ヒュンテルは、カディス遠征で何かと物入りだとして(しかも必需品のためというよりは、どちらかといえば奢侈品のためのような)、父のヤン六世にこっそり借金をしていました。しかしそれをいつまでも返さないため、兄弟たちはじめマウリッツまで一族全員が知ることとなり、ニーウポールトで戦果を挙げた際も、彼ら全員から借金の返済を迫られています。

1601年6月、同い年の未亡人アンナ=マルガレータとアルンヘムで結婚しています。(ラインベルク攻囲戦の1週間前に慌しく式を挙げています)。なお1600年頃、別な女性との間にフィリップスという私生児が生まれています。

メンドーサ提督の身代金については、当初ローデウェイク=ヒュンテル個人に入るべきものだったのを、連邦議会がオランダ人捕虜(スペインのガレー船漕ぎ手にされていた数千人)との捕虜交換に変更してしまいました。ただ、その後ローデウェイク=ヒュンテルもすぐに結婚しているので、借金返済と結婚資金程度の金銭的便宜は図られたのではないかと推測されます。

スライス攻囲戦の1604年、街の奪還に成功して入城を果たした後、当時街に蔓延していた伝染病に罹り、数日で病死してしまいました。この従弟の死に、マウリッツは人目も憚らず号泣したと伝えられています。本人の遺言で遺体は、兄フィリップスたちの眠るアルンヘムに埋葬されました。夫人との間に子供はなく、夫人も2年後には若くして死亡し、同じくアルンヘムの聖エウセビウス教会に眠っています。

リファレンス