アンナ・フォン・ザクセン Anna von Sachsen

After Anthony Mor - Portrait of Anna of Saxony

after Anthonio Moro (1560s) In Wikimedia Commons

  • ウィレム・ファン・オランイェ公妃、ザクセン選帝侯女
  • 生年: 1544/12/23 ドレスデン(独)
  • 没年/埋葬地: 1577/12/18 ドレスデン(独)/マイセン(独)

生涯

ウィレム沈黙公の二番目の妻で、ナッサウ伯マウリッツの実母。ザクセン選帝侯モーリッツの一人娘で莫大な財産を相続していたため、多くの求婚者がいました。アンナ自身が気に入って選んだウィレムと、17歳のときに結婚。しかし、この結婚はウィレムにとって、最悪に近いものとなってしまいます。そもそもザクセン選帝侯は、かつてルター派諸侯とカール五世両方の側を手ひどく裏切ったことがあり、その一人娘との結婚はウィレムの政治的な立場を微妙にしました。また、アンナは情緒不安定で、その奇行は枚挙にいとまがなく、『オラニエ公ウィレム』にはその凄まじさが事細かに描かれています。(酒乱、暴力、幼児虐待、公的場所での狂乱、被虐性欲、自殺未遂、などなど)。ヨーロッパでは、「狂女王ファナ」に次いで有名な狂女として挙げられることもあります。

ウィレムとともにネーデルランドを追われてディレンブルクへ来ると、アンナは田舎での生活を嫌い、マウリッツを産んだあと子供を放置してひとりケルンに逃亡しました。ケルンでは借金をしながら浪費生活をし、その後借金取りから逃れるようにジーゲンに移り住みます。ここはウィレムの弟ヤンの領地でもありました。その際に、ケルンで出会った弁護士のヤン・ルーベンス(のちの画家ペーテル=パウル・ルーベンスの父親)を愛人として無理やり伴っています。ヤン・ルーベンスとの間に不義の子ができたため、1571年12月、ウィレムは弟ヤンの手も借りて、アンナとの結婚の無効を申し出ました。しかし、実家のザクセンではしばらくこの離婚を認めなかったため、アンナはしばらくヤンの領地の一つ、バイルシュタインに幽閉されることになります。この監禁状態の間にも狂気はエスカレートしていきました。ウィレムが再婚した1575年になって実家のドレスデンへと移され、2年後に死去。ウィレムとの間の成人した子供は3人。

  • アンナ
  • マウリッツ
  • エミリア

マウリッツは父親については折に触れてしばしば語りましたが、母親については決して語ろうとはしませんでした。彼の非婚主義の遠因はこの母親にあると考える研究者も多いようです。

クリスティーネ・フォン・ディーツ Christine von Diez

  • 生年: 1571/8/22 ジーゲン(独)
  • 没年: 1637/1638 ジーゲン(独)

生涯

ウィレムが認知を拒否したため、アンナとヤン・ルーベンスとの間の子とされた娘。つまり、ナッサウ伯マウリッツの妹にして、画家ペーテル=パウル=ルーベンスの姉ということになります。(のち、外交官としてオランダに入国する際にルーベンスはこの関係を利用しています)。ナッサウの名は名乗れなかったものの、ウィレムの弟のヤン六世に引き取られ、ナッサウ家の女子たちと何ら変わらない教育を受けました。とくにヤンの息子のフィリップスと仲が良かったとのこと。

本人は1590年頃には自らの出生について知っていたようです。女子修道院での教育を終えた後、庶子であることとヤン六世の困窮により結婚に苦労しますが、兄であるマウリッツから年金と持参金を得、1597年にディレンブルクの城代でもあるヨハン=ヴィルヘルム・フォン・ヴェルシェンエングスト=ベルンコットと結婚しました。三十年戦争勃発前は夫の購入した領地で穏やかに暮らしたようですが、他のナッサウ領同様三十年戦争の惨禍に巻き込まれ、亡命を強いられています。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
  • Digitaal Vrouwenlexicon van Nederland Anna van Saksen
  • NDB