対戦国 | オランダ | スペイン(イタリア) |
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勝 敗 | ○ | × |
参加者 | シャルル・エローギール マティス・ヘルト 他70名 ナッサウ伯マウリッツ |
パオロ・ランザベッキア イタリア(シチリア)人守備隊 350名 |
初陣でも、陣頭指揮を執ったわけでも、自ら発案したわけでもないが、ナッサウ伯マウリッツの軍事キャリアの最初の戦功に数えられるオランダ版『トロイの木馬』。それは、ともすれば一笑に付されるようなトリックに満ちた奇襲作戦を、大真面目に取り入れ成功させたからに他ならない。彼は自軍に1人の犠牲者も出すことなく、ナッサウ家父祖の地を取り戻した。
ブレダは低地地方屈指の強固な要塞都市だ。かつての領主であった我が祖先たちは、この街を要塞化し強化することが、よもや自国を悩ます種になろうとは露ほども思わなかっただろう。
ナッサウ伯マウリッツ/ G. A. Henty, By England’s Aid.
経緯
ブレダは1403年以降、ナッサウ伯が代々所有してきた男爵領です。が、1567年、フェリペ二世によるオランイェ公ウィレム一世の財産没収時に、ブレダもスペインの手に渡ります。その後、この「ブレダの泥炭船」以前にも、
- 1577年 「ブレダ攻囲戦 (1577)」 ホーエンローエ伯とシャンパニー卿による攻囲戦(2ヶ月間)
- 1581年 「オートペンヌ卿の狂暴」 ベルレーモン伯クロードによる強襲(2日間)
と、オランイェ公とスペインの間でその所有権を巡る争いが繰り返されていました。
1590年2月、ブレダ城に定期的に泥炭を届けている泥炭船の船長、アドリアーン・ファン・ベルヘンが、若干22歳のナッサウ伯マウリッツに『トロイの木馬』計画を持ちかけます。泥炭は燃料として使われるため、冬季には頻繁に城内に泥炭を運んでいること、あまりに頻繁なので近頃は全く積荷のチェックもされないことから、この泥炭の中に兵士を隠し、ブレダ城内に忍び込むことができるのではないか、という申し出です。
マウリッツはこの計画を採用し、ホラント州法律顧問のオルデンバルネフェルトに相談して許可を得ます。(マウリッツは陸海軍総司令官ではありますが軍事計画に関する決定権はなく、全て連邦議会の議決を必要としたためです)。マウリッツは当初、この計画の実働部隊の司令官として、従兄のナッサウ伯フィリップスを使うつもりでいました。しかしオルデンバルネフェルトは、オランイェ家に忠誠を示したいと自ら申し出たシャルル・ド・エローギールを登用します。エローギールはオランイェ公ウィレムに忠実に仕えてきましたが、レスター伯時代に政争に巻き込まれていて、その名誉を回復する機会を求めていました。すべての計画は関係者以外には秘密裏に進められ、ナッサウ伯フィリップスの軍や農民たちから実行部隊が募られました。
貨物船に兵を隠しての奇襲、という作戦自体は、既にウィレム沈黙公が持っていたアイデアだったという説もあります。少年時代のマウリッツが父親と軍事談義をする機会があったとはあまり考えられませんが、マウリッツや議会が一介の船長の提案をすんなり受け入れたのも、そのような下地があった上でのことだったかもしれません。また、4年前のアクセルでは、もっとストレートな奇襲(夜間に城壁をよじ登って忍び込む)をマウリッツ自身が経験しているので、特に目新しい方法とは思われなかった可能性もあります。
戦闘
2月25日、70名の部下を揃えたド・エローギールはブレダ下流の泥炭船の乗船ポイントで待機し、同時にマウリッツたちはブレダ近郊のウィレムスタットに軍を移動し始めました。ところがこの日、船長のファン・ベルヘンは寝坊して時間までに船を用意できず、決行は翌日に延期せざるを得なくなりました。ここでファン・ベルヘンは計画から外されて彼の2人の従兄弟たちが代わりを担うこととされ、2月26日、70名の実行部隊が乗船します。
その後悪天候のため、泥炭船のブレダ到着はさらに2日遅れました。厳冬期のこの5日間、兵士たちは泥炭の下に隠れていたので、食料・飲料水不足によって大勢が風邪をひいてしまい、咳やくしゃみを我慢するのに苦労したようです。それでもこの間、選りすぐりの猛者達の中にはただの一人も、弱音を吐いたり愚痴をこぼした者は居なかったといわれます。副隊長のマティス・ヘルトは、万一自分の咳のせいで事が露見するくらいなら、その前に心臓を一突きにしてほしいと言って、周りの者に短剣を握らせたほどです。
3月3日の夜、船は城門前に着き、ド・エローギールはウィレムスタットの本隊に到着の知らせを送りました。マウリッツはまずはホーエンローエ伯に、騎兵で先行するよう命じます。
一方泥炭船側では、予想どおり、積荷の検査はほとんど無きに等しいものでした。ブレダの守備隊はスペイン軍の中でもイタリア連隊、その司令官はランザベッキア父子でしたが、近郊のヘールトライデンベルフの知事も務める父のエドゥアルド・ランザベッキアは、オランダ軍の陰謀とウィレムスタットへの集結の情報を受け、兵の半数を率いてヘールトライデンベルフに偵察に出ていました。さらに土曜日だったこの夜、警備に残っていた息子のパオロ・ランザベッキア率いる守備隊は、ほとんどがブレダの街で開催されていた祭りに興じていて、酔いつぶれているか、警備自体も手薄になっていました。
実行部隊の70名は真夜中にブレダ城内への潜入に成功します。ド・エローギールは70名を2つのグループに分け、別ルートを採ってそれぞれ市庁舎を目指すことにしました。一説には、ド・エローギールが守備兵の一人の喉元に剣を突き付けながら警備全体の人数を訊ね、「350人」と聞いたところを、自軍の兵たちには「50人しかいない」と伝えて士気を上げたともいいます。襲撃の報を受けたパオロ・ランザベッキアは自ら先頭に撃って出ますが、負傷して一時退却しました。
真夜中の急襲により守備兵がパニックに陥ったこと、奇襲に気づいた市民たちのうち、スペイン支配に反感を持っている者やオランイェ家支持者たちの手引きがあったことも含め、70名はひとりの犠牲者を出すことも無く、未明までには易々と市庁舎の占拠に成功しました。市庁舎占拠ののち残りの警備兵が逃げ出し、ランザベッキアとド・エローギールが交渉の席についたちょうどその時、ホーエンローエ伯率いる先遣隊が現れたという知らせが届き、ランザベッキアも開城を決意しました。
翌朝、マウリッツと従兄フィリップス、異母兄ユスティヌス、英軍指令官フランシス・ヴィアー、ゾルムス伯らの部隊からなる歩兵の本隊がブレダ城門に到着しました。ここでも一切戦闘行為はなくブレダ入城が果たされました。入城の際にはトランペットが『ウィルヘルムス』を鳴らしたそうです。
余波
オランダ軍は近辺の複数の砦も奪還し、ブレダ市だけではなくブレダ男爵領にあたる地域全体をも回復、副隊長のマティス・ヘルトがその防衛に当たりました。オルデンバルネフェルトが補給路を絶つ手筈を整えていたため、いったん逃れた守備兵たちが再度街を奪還しようとした試みは失敗しました。その後も、10月にマンスフェルト伯カールによる周辺地域奪還の試みがありましたが(ノールダム砦襲撃)、マティス・ヘルトによって撃退されています。
ブレダの奇襲は、本人がほとんど何もしていないにも関わらず、司令官としてのマウリッツの名を一躍挙げることになりました。もちろん連邦議会によって意図的に宣伝されたという側面もあります。連邦議会は97,000グルデンともいわれる多額の賠償金を手にし、今後の共和国軍への資金援助と軍事行動への全面的な支援を約束することになります。賠償金の金額はともかく、街や住民へのその他の措置は、当時としては異例といえるほど寛大でした。泥炭船部隊の70名も、通常の月給の2倍を支払われ、その功に報いられました。
もちろんこの賠償金がすべてマウリッツの懐に入ったわけではありませんが、マウリッツが「自宅」(=自身が請求権を持つ世襲領)から莫大な金額を巻き上げたとして、「5年前、大商業都市アントウェルペンを開城させたパルマ公の請求よりもはるかに多い」と、スペイン人からは格好の非難のネタにされたそうです。
そのパルマ公ですが、この話を伝え聞くと守備兵たちがろくに戦いもせずに逃げ出したことに激怒し、守備隊の将校3人を見せしめとしてブリュッセルで斬首し、ランザベッキア父子の地位を剥奪しました。自分と同じイタリア人のこの失態が許せなかったとのことですが、これは35年後のスピノラ侯のブレダ攻囲戦の動機とも通じる部分です。
このときのイタリア守備隊は「スピノラ隊のシチリア兵」とのことです。アンブロジオ・スピノラ侯が傭兵を率いてフランドル戦線に現れるのはこの「ブレダの泥炭船」から13年も後であること、スピノラ家は基本的にジェノヴァを地盤にしていて分家も多いことから、一族ではあると思いますが、この当時20歳そこそこのアンブロジオ本人とは直接関係はなさそうです。
ド・エローギールはこの数年後から、何年間かブレダ知事を務めました。1601年からは、マウリッツの異母兄ナッサウ伯ユスティヌスが一貫してその地位に就きます。(そのため1625年の攻囲戦を描いた『ブレダの開城』に登場するのもユスティヌスです)。オランイェ家の財産としてブレダ男爵領が返還されたのはさらにその後の1604年になってからですが、スペインから解放された長兄のフィリップス=ウィレムがそのタイトルを継いだため、マウリッツ自身がブレダ男爵となるのは兄の死後の1618年以降のことです。
地理的にも南部との境に接するブレダは防衛上最重要の要衝であり、後に駐フランス大使アールセンが「マウリッツ公の最高傑作」と称するようになるほど、マウリッツは精魂込めてこの街を要塞化していきます。
その後のブレダについては下記を参照ください。
メディア
1) G.A. ヘンティの小説(英語)「By England’s Aid」の14章「The Surprise of Breda」は、まるごと1章「ブレダの泥炭船」が舞台になっています。この章だけでも単独で読めますよ。 Literature Network
TURFSCHIP VAN BREDA – sneak preview from STUDIO SMACK on Vimeo.
2) STUDIO SMACK制作の動画。この動画も含め、19世紀歴史画なども必ずといっていいほど満月で描いてありますが、冷静に考えてわざわざ満月の日に隠密行動はしないですよね(実際もほぼ新月の日に決行)。
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。
- Genty, “By England’s Aid”
- Motley, “United Natherlands”
- Markham, “Veres”
- Firth, “Tracts”
- Prinsterer, “Archives”