対戦国 |
オランダ |
スペイン |
---|---|---|
勝 敗 | △ ~1602/3 | △ ~1602/3 |
参加者 | フランシス・ヴィアー ホレス・ヴィアー ナッサウ伯エルンスト=カシミール ナッサウ伯ハンス=エルンスト アンリ・ド・コリニー ジョン・オーグル |
オーストリア大公アルプレヒト ブッコワ伯シャルル=ボナバンチュール パルマ公ラヌッチョ・ファルネーゼ ファン・デン=ベルフ伯フレデリク |
冬からオランダ軍部が懸念を深めていたとおり、オーストリア大公は1601年7月、2万の大軍でオーステンデを包囲した。「オーステンデが陥ちるまで、下着を替えないことにしましょう」大公妃イザベラのこの願掛けが、スペインの当初の楽観視を物語る。オーステンデ守備隊は主力も援軍も欠いたまま、三方を囲まれ、日夜砲撃を受け続ける。開戦から半年、既にオーステンデの街中には、砲弾跡の無い家は一軒も残っていなかった。
率直に言って、古今東西、優秀な司令官に兵を分割するバカは居ない。自分がスペインなら、先に全軍でもって片方を殲滅してから、やはり全軍で残りの片方を片付けるだろう。
ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク/ Prinsterer, “Archives”
はじめに
オーステンデ攻囲戦は「スペイン軍の攻撃不能な攻撃、オランダ軍の防御不能な防御」が3年以上もの間続けられたうえ、オランダ軍側は総司令官を含む軍部のトップ3が一度も参加することのなかった、八十年戦争全期間を通じても、もっとも長期間かつ特異な攻囲戦です。そのため、この記事もその内容に応じて3つの期間に分けています。
- 前期 開戦からヴィアーの撤退まで 1601/1-1602/3
- 中期 ヴィアー撤退からスピノラ登場まで 1602/3-1603/9
- 後期 スピノラ登場から開城まで 1603/9-1604/9
この「前期」では、オーステンデ「前」からヴィアー将軍撤退までをひとつの区切りとしました。 そして「ラインベルク攻囲戦(1601)」に続き、20歳の若きナッサウ伯ハンス=エルンストに再び登場してもらいます。前回の手紙から約3ヶ月後、1601年9月のオーステンデからの手紙の全文を、かなり意訳のうえお届けします。(Prinsterer, “Archives”)。その後、ヴィアー将軍率いるイングランド軍による2つの作戦をご紹介することにします。
経緯(ラインベルク攻囲戦(1601)と共通)
前年のニーウポールトの戦いでオランダ軍は大勝利を挙げたものの、翌年、スペイン側は即座にオーステンデ攻囲戦というカードを切ってきました。フランドル地方の海岸沿いに唯一残ったオランダ側の都市を制圧し、完全にフランドルから駆逐するためです。
オーステンデ攻囲戦はスペインとオランダの戦いですが、オランダ側の対応にもっとも重要な要素となったものが、フランスとサヴォイアの和平とイングランドの出方です。
1598年5月、フランス国王アンリ四世はスペインとの講和条約「ヴェルヴァン条約」を結びましたが、9月にスペイン国王フェリペ二世が死去し、1600年7月にニーウポールトでオランダがスペインを破ると、それに乗じて隣国サヴォイアに侵入します(フランス=サヴォイア戦争: 1600年9月-1601年1月)。この和平の「リヨン条約」(1601年1月17日)により、一時閉鎖されていた「スペイン街道」のサヴォイアルートが開通することになります。ニーウポールトの報復のため、アルプレヒト大公が本国から大軍を呼び寄せている、という噂が現実味を帯び、軍部は対応を急がせようとします。しかし一向に軍備を進めない議会との温度差は、日を追うごとに強まっていきました。
連邦議会と法律顧問オルデンバルネフェルトは、この年もフランドル遠征およびオーステンデ防衛を主張します。が、両ナッサウ伯マウリッツとウィレム=ローデウェイクは、いずれの計画にも強硬に反対し、東部や南部の都市(具体的にはラインベルク、スライス、フラーフェ、デン=ボスの4都市)を確実に奪還して国境固めをすることを先決とし、その後にオーステンデに当たる策を提案します。
兵力にどうしても劣るオランダ軍が頼みの綱とするのはイングランド軍です。エリザベス女王はイングランド軍4000を用いることを快諾はしたものの、「但しオーステンデにしか用いてはならない」という条件をつけました。この条件に対して議会は女王と何ら交渉をおこなわなかったため、結局オーステンデ防衛にはイングランド軍があたり、オランダ軍本隊は東部国境沿いの遠征、ラインベルクの攻囲戦に取りかかる、という折衷案が採られることになりました。
議会はオーステンデ守備隊の隊長として、「ニーウポールトの英雄」の一人、イングランド軍総司令官フランシス・ヴィアーを任命しました。
ハンス=エルンスト伯から祖父のヤン六世へ オーステンデ攻囲戦
おじい様*1、ぼくはもうここに5日めか6日めでしょうか。敵は南側以外の坑道を掘り進めてきています。南側*2を守るイングランド軍のヴィアー将軍*3はまだ市外にいます。
砲台の建設が始まりました。おとといの夕方、我が軍はそれを阻止するために出撃しました。そこは守備兵も少なく見えました。
西側*4では堤防に穴を開けられて、坑道には敵の泥が水の力で一日中入り込むようになっています。きのうの夜は、丈夫な石や土嚢を使って水の漏れる穴をふさいでやろう、と言ってフランス人たちがやってきました。彼らの作業によって、対壕を掘ったり塹壕に地雷を埋めたりできるほどに改善しました。
けれどそこにフランス連隊のシャティヨン中隊長*5は居ません。2-3日前に大砲の弾を受けて死んでしまっていました。誰一人悲しまない者がいないほど、彼は勇敢な男でした。敵の側でも、指揮を執っていたカトリスという貴族が死にました。
おじい様、信じられますか。攻囲戦がはじまってからこちら、敵は周りを大砲で囲んで、もう80,000発以上の弾丸*6を撃ち込んでいるんです。ここに居る外科医たちは、大砲で重傷を負った兵士だけを数えても、500人以上の腕や脚を切ったと言っています。
閣下はここではなく、ミデルブルフ*7にいます。
ぼくらは、リールの村*8でちょっとした冒険を計画していたんですが、農民に見つかってしまって、結局やらずじまいに終わってしまいました。
おじい様、手紙を書く時間が取れないことをどうかお許しください。神がお望みになれば、またの機会もあるでしょう。
心の底より、ぼくの生涯のすべてを賭けて、おじい様、
貴方のいちばん従順な孫、 ヨハン=エルンスト
オーステンデにて、旧暦1601年9月14日
ディレンブルクの祖父上様、ナッサウ伯大ヤン様
注釈
- ナッサウ伯ヤン六世(大ヤン)のこと。ディレンブルク在住。ハンスにとっては祖父にあたります。
- 上掲の地図だと、ちょうど絵の中央のあたりと思われます。最激戦区。
- 駐蘭英軍総司令官フランシス・ヴィアーのこと。イングランド軍は本国の意向で7月15日からオーステンデに投入されています。8月4日から9月19日まで、フランシスは頭部の重傷のため一時期街を離れています。ハンスは旧暦と明記しているので手紙の書かれたのは新暦換算で9月24日、5-6日前にオーステンデ入りしたとすると、フランシスに同行して来た可能性もあります。
- 海岸に面した、街のいちばん左隅。上掲の地図だと、左上に描かれたコンパスのちょうど右側付近と思われます。ヴィアーの居る南側と並んで、「地獄の口」と呼ばれた最激戦区の双璧。
- アンリ・ド・コリニー=シャティヨン。フランスのコリニー提督の孫。ハンスとは同い年で親友の一人。流れ弾に当たり戦死。
- ユリウス暦の日付から換算して、2ヶ月半くらい。1日あたりの砲弾1000発という計算になります。さすがに誇張もあると思われますが、相当の砲撃数です。
- ナッサウ伯マウリッツのこと。オランダ軍最高指揮権者。怪我の治療のためフランシス・ヴィアーが居たのもミデルブルフなので、作戦基地を置いていたのかもしれません。
- 場所は特定できませんでした。作戦というのも、おそらく少数での夜襲か何かと思われます。
アンリ・ド・コリニーの戦死は新暦9月10日とされています。この文面だと実体験からの記述のように見えますが、ハンスは日付に旧暦と明記しているので、アンリはハンスのオーステンデ入りの前に既に亡くなっている計算になります。もし手紙が実は新暦の間違いであれば、ハンスは9月10日以前にオーステンデ入りし、アンリ・ド・コリニーの戦死にも立ち会ったことになります。その場合、フランシス・ヴィアーはまだ戻ってきていないはずで、「ヴィアー将軍はまだ市外にいる」との記述とも矛盾しません。
「ラインベルク攻囲戦」に見学に来ていたノーサンバーランド伯ヘンリー・パーシーは、ハンスたちに3日遅れて、やはりオーステンデにも現れています。ヴィアー将軍のキャンプは、マウリッツのキャンプと並んで各国の貴族や将校たちに人気の高いキャンプでした。そのため、ハンスのような将校になりたての若者も、勉強を兼ねて派遣されてきたのだと思われます。アンリ・ド・コリニーは、周囲の反対を押し切って志願していました。
これら若い貴族の見学者には2種類、軍事を学びに来る者と単に物見遊山に来る者とがいました。ノーサンバーランド伯はまさに後者の代表で、このような「観光客」を嫌ったヴィアーは、彼らを特別扱いはしませんでした。ノーサンバーランド伯はオーステンデでの「接待不足」に腹を立て、早々に帰国してしまいます。しかもこれを深く根に持っていて、翌年、一時帰国したヴィアーに決闘まで申し込んだほどでした(相手考えろよ…)。もちろんヴィアーはこのような馬鹿馬鹿しい申し出は丁重に断っています。
戦闘
「クリスマスの陰謀」
9月以降増援のないオランダ側では、日々の攻撃で兵力が削減されつつありました。スペイン側でも、早期に決着を付けたいという本国の意向もあり、全軍での一斉攻撃を計画します。その情報をいち早く掴んだヴィアーはマウリッツやウィレム=ローデウェイクに援軍を依頼し続けますが、兵の調達に時間がかかり補充が追いつきません。この状態で一斉攻撃を受けたら全滅の危険性もあると考えたヴィアーは、配下の将校全員を集め、「降伏か戦死か」を訊ねました。弟ホレス・ヴィアーとジョン・オーグル以外の全員が「戦死」を主張したため、ヴィアーは援軍が来るまでの時間を稼ぐため、ある策略を思いつきます。
12月24日、ヴィアーは配下の中隊長、ジョン・オーグルとチャールズ・フェアファクスに、自分の意図については何も伝えないまま、使者としてアルプレヒト大公のもとに送り、降伏するので開城の交渉をしたいと申し入れます。アルプレヒトは罠ではないかと疑いましたが、2人の使者のことばに嘘がなさそう(この2人も策略は何も知らないので)なこと、この2人が人質としてここに残るということから、マテオ・セラーノとシモン・アントニオを代わりの使者として送りました。オーステンデの街でセラーノとアントニオはヴィアーのもとへの案内を要請しましたが、あちこちをたらい回しにされた挙句、アルプレヒト大公のキャンプとは最も遠い門から追い出され、丸一日かけていったんキャンプに戻されてしまいました。
翌日、この「手違い」を平謝りに謝ってきたヴィアーの使いとともに、セラーノとアントニオは再度オーステンデに入ります。この日はちょうどクリスマスで、ヴィアー本人が謝罪を繰り返しながら彼らを大量の酒と料理で歓待し、さらにヴィアー本人のテントを寝所として提供したことから、2人はすっかり安心して気持ち良く寝てしまいました。
翌朝、海路経由でゼーラントの援軍400名が到着しました。
昼ごろに起き出してきたセラーノとアントニオは、「もう交渉は不要である」との旨が書かれたヴィアーの書状を持たされ、再度街の外に追い出されてしまいました。何も知らなかったオーグルとフェアファクスは何事もなく送り返されたものの、アルプレヒトの怒りは「ヴィアーを自らの剣にかけないと気が済まない」というほど凄まじく、将校たちには、襲撃の際には街の女子供にも容赦するなと命じました。(実際は、市長および女性と子供の大半は、既に攻囲戦の始まった7月上旬にはゼーラントへ避難しています。)
「1月7日の襲撃」
次こそ大規模な襲撃が避けられないと考えたヴィアーは、入念に準備を進めます。将校たちに各人の持ち場と役目を把握させ、各ポイントの地形と天候による変化のチェック、そして本人は年が明けてからはほとんど寝ずの番を続けました。オーステンデの守備隊で、襲撃に備える兵数はわずか1200名です。従軍年齢なりたてほやほやのハンスがこの時点までオーステンデに留まっていたかどうかは不明ですが、少なくともここにナッサウ伯エルンスト=カシミールは含まれています。
1月7日、スペイン側は囲んだ三方全包囲から、まずは一斉射撃を仕掛けてきました。砲撃は丸一日続き、さらに日が暮れた後、西側からはラヌッチョ・ファルネーゼ将軍をはじめとした数部隊合計8000名が、東側からはブッコワ将軍の2000名が、同時に水壕を渡り、堡塁を乗り越えようとしてきました。各ポイントに効果的に火器と兵員を配置して待ち受けていたオランダ軍は、大砲やマスケット銃での狙い撃ちのほか、さまざまなもの――手榴弾、石、投げ縄、火炎瓶から、なんと蟹まで――を彼らに投げつけ撃退します。
スペイン軍は三度、同様の一斉突撃を試みましたが、すべて撃退されました。彼らが退却をはじめるのを見て、ヴィアーは2人の将校に西の水門を開けるよう指示します。水門から放出された水によって、撤退中のスペイン兵が海まで流されていってしまいました。さらに満潮が重なり、撤退が間に合わず水壕のこちら側に残されたスペイン兵は、狙い撃たれるか捕虜とされました。
余波
1月7日の襲撃で、オランダ側の死者は将校5名を含む30-40名、怪我人はホレス・ヴィアーを含めた約100名。スペイン兵が残していった戦利品は、全部で700-800ギルダー相当にのぼったそうです。翌週にはすぐにデ・ハルタイングの率いる援軍が到着し、さらに増強の報も届きました。逆にスペイン側の損害は、クリスマスの使者だったシモン・アントニオを含む戦死が800-1500名、溺死が2000名と多大なものになりました。
スペイン軍では、夜間に要塞に突っ込む、という危険な襲撃を強行した上層部に対する不満が高まり、兵士たちが反乱を起こします。アルプレヒト大公は首謀者たちを処刑し、煽動者たちをガレー船送りにしましたが、その沈静化には時間がかかりました。このように約2ヶ月間、冬季ということもあり、両軍に大きな衝突はありませんでした。
3月7日、本人たちの強い希望もあり、夏からの南部遠征に向けオランダ本隊と合流するため、ヴィアー兄弟はオーステンデ守備の任を解かれ街を後にします。その指揮は、1月7日の襲撃撃退に功のあったファン・ドルプが引き継ぐことになりました。
なお、9月に戦死したアンリ・ド・コリニーの遺体は、従弟のナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクがフランスへ送る手配をしたとのことです。 その後の展開については下記にて。
リファレンス
- Belleroche E., The Siege of Ostend, or, the New Troy, 2011
- Motley, “United Natherlands”
- Markham, “Veres”
- Firth, “Tracts”
- Kikkert, “Maurits”
- Prinsterer, “Archives”
ヘンティの小説の一部をnoteで整形済機械翻訳しています。「クリスマスの陰謀」と「1月7日の襲撃」についての部分です。