- オランイェ公女
- 生年: 1580/9/17 アントウェルペン(白)
- 没年: 1631/10 シャトー=レナール(仏)
生涯
ウィレム沈黙公の娘で、シャルロットの5番めの娘。幼少の頃、母と父が相次いで亡くなったため、義母ルイーズに育てられます。父の死後はしばらく国内を転々とし、1590年からハーグに住みました。
ナッサウ家では、ドイツのルター派・カルヴァン派諸侯同様、フランスのユグノーとの関係を強化しておく必要がありました。1594年にシャルロッテ=ブラバンティナは、義母ルイーズ・姉エリーザベトとともにフランスに結婚相手探しに行きます。その際に求婚された相手は家長である兄のマウリッツが承諾しなかったため、4年後、姉エリーザベトの夫ブイヨン公の紹介で、ブイヨン公の従弟トゥアール公クロード・ド・ラ・トレモワイユと結婚しました。
シャルロッテ=ブラバンティナはウィレムの娘の中では最も美しく、兄のマウリッツからも「la belle Brabant」と呼ばれていました。結婚前に恋人もいて、結婚に際しては一悶着あったといわれています。(弟のフレデリク=ヘンドリクはこのことに関して耳年増のようなませた手紙を送っていますが、結婚祝いには高額なペンダントを贈りました)。ハーグで式を挙げたあと、フランスでも式を挙げ、いずれにも義母ルイーズと弟フレデリク=ヘンドリクが参列しました。フランスへは護衛隊長として従兄のナッサウ伯エルンスト=カシミールも同行しています。
しかしこの結婚は長く続かず、クロードは1604年に死亡。その後は基本的には姉エリーザベトと一緒に暮らし、長男アンリが姉の長女マリアと結婚しています。また、すぐ上の姉シャルロット=フランドリナの修道院が近くにあったことから、緊密な付き合いを続けていました。ほかにも、幼少期に育ったドルトレヒトに屋敷を構え、頻繁にハーグのマウリッツやフレデリク=ヘンドリクのもとを訪れており、フランスのユグノーの外交員のような役割も果たしています。晩年は、義母ルイーズが所有していたオルレアン公国のシャトー=レナールに住んだようです。
娘のシャルロットは一時期ハーグの義母ルイーズ・ド・コリニーのもとでも育ち、のち第七代ダービー伯爵ジェームズ・スタンリーと結婚しました。『白馬の騎士―愛と戦いのイギリス革命』にも女傑として描かれています。
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。
- Ditzhuyzen, “Woordenboek”
- Digitaal Vrouwenlexicon van Nederland Charlotte Brabantina van Oranje