- ナッサウ伯 Graaf van Nassau、ホリンヘム知事(1586-91) Gouverneur van Gorinchem、ネイメーヘン知事(1591-) Gouverneur van Nijmegen
- 生年: 1566/12/1 ディレンブルク(独)
- 没年/埋葬地: 1595/9/3 ラインベルク(蘭)/アルンヘム・聖エウセビウス教会
生涯
ヤン六世の四男。従弟のナッサウ伯マウリッツと同世代のため、生まれてからほぼずっと一緒に育ちました。1576年、マウリッツ、長兄ウィレム=ローデウェイク、三兄ゲオルグらとともにハイデルベルクで学び、1578年にアントウェルペンにあるウィレム沈黙公の屋敷に父ヤン、長兄ウィレム=ローデウェイク、従弟マウリッツとともに移り住みます。このアントウェルペンでは、ウィレム沈黙公の暗殺未遂事件にも立ち会っています。1583年から1年半ほど、マウリッツとともにレイデン大学で学びました。(が、フィリップスは軍制改革に全く関っていないことから、あまり勉学は得意ではなかったと推測されます)。
沈黙公の死後の1585年から歩兵大隊長となり、ケルン、ホリンヘム、ネイメーヘン、ルクセンブルク、フランス、ヘールトライデンベルフ、フロニンゲンと転戦し、歩兵将校でありながら、海戦も、騎兵の指揮も務めました。何にでも柔軟に対応できる、まさに典型的な体育会系といえるでしょう。共和国の反乱だけではなく、ケルン戦争、第八次ユグノー戦争など国際的な紛争に派遣もされていて、従妹のエリーザベト(マウリッツの異母妹)の夫となるフランス貴族・ブイヨン公アンリとは、何度かルクセンブルク戦線を共に戦っています。
性格は典型的「粗暴なドイツ人」。飲む打つ買うの三拍子で、フランス出身の伯母ルイーズ・ド・コリニーには相当嫌われていました。とにかく酒好きで、酒で失敗していることも何度もあります。
それでも、数居るナッサウ伯たちの中でもずば抜けて勇敢で良い将校でした。何をもって「良い」とするかは議論の余地がありますが(少なくとも彼の場合「高貴な」とか「騎士的な」とかではなさそうです)、上記のような柔軟さに加え、総司令官の方針に異を唱えない従順さ、愛すべき人間性による人気の高さなどが挙げられるでしょう。家族たちからも複数の愛称で呼ばれていて、それが今日まで文字の上でも残されているのは、当時の貴族としてはめずらしいことではないでしょうか。長兄のウィレム=ローデウェイクは、フィリップスのことを自分たち兄弟の中の「真珠」と称していますが、一際目立っているという意味かもしれません。
1595年のフロール攻囲戦の際、四弟エルンスト=カシミール、五弟ローデウェイク=ヒュンテル、従弟ゾルムス伯エルンストなどを含む、少数の騎兵で奇襲をしかけようとして失敗。リッペ川付近の乱戦で重度の火傷を負ってしまいます。そのままエルンスト=カシミール、同じく重傷のエルンストと3人で捕虜となりラインベルク城に運ばれましたが、翌未明に怪我がもとで死亡。(ゾルムス伯も2-3日後に死亡)。2人の遺体は丁重に返却され、一緒にアルンヘムに葬られました。
リファレンス
- “ADB“