対戦国 |
オランダ |
スペイン |
---|---|---|
勝 敗 | ○ | × |
参加者 | ナッサウ伯マウリッツ ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク ナッサウ伯フィリップス ナッサウ伯エルンスト=カシミール ゾルムス=ブラウンフェルス伯エルンスト ゾルムス伯ゲオルク=エバーハルト ヴィアー卿フランシス |
フランシスコ・ベルデューゴ ファン・デン=ベルフ伯ヘルマン |
ナッサウ伯ヤン六世が設立に尽力した「ユトレヒト同盟」は、北部七州の結束を約した。だがそのわずかに翌年、当時の州総督レンネンベルフの「裏切り」によって、フロニンゲンは州ごとスペイン国王に帰順する。そしてアンジューが来ても、レスターが来ても、「共和国」が樹立しても、飛び地のまま15年近くもその姿勢を貫いた。だが今や、次世代のナッサウ伯たちは徐々に外堀を埋め、悲願の領土回復に迫ろうとしていた。同盟本来の「七州」の状態に回帰した共和国では、この占領を称して「奪還 Reductie」と呼ぶ。
私のかわいいモーリッツは、今や当代並ぶ者のない戦術家になったのだな。
ナッサウ=ディレンブルク伯ヤン六世/ Prinsterer, “Archives”
経緯
フロニンゲン州は隣州のフリースラント同様、伝統的に自治意識の強い州です。辺境ということもあり歴代の領主からも一線を引いていて、悪くいえば保守的でもあり、変化を嫌いました。たとえば、反乱初期のヘイリヘルレーの戦いで、ナッサウ伯ルートヴィヒが勝利したときも、フロニンゲン市が軍の入城や物資の支援等を拒否したため、折角の勝利が生かせなかったという経緯もあります。
「レンネンベルフの背信」 Verraad van Rennenberg
1579年、北ネーデルランド七州は「ユトレヒト同盟」を締結しました。当時最北部の2州(フリースラント/フロニンゲン)の州総督を兼ねていたレンネンベルフ伯ジョルジュ・ド・ラレンは自身がカトリック教徒ということもあり、このまま反乱の一員に組み込まれて良いものか、それとも早い段階でフェリペ二世に服するべきか、調印後もずっと思い悩んでいました。というのも他の都市では、カトリックの市参事会員が急進派のカルヴィニストに取って代わられる例が続いていて、旧教と新教の和解と融和を志向してきたレンネンベルフ伯にとっては、逆に反乱側の過激性のほうが脅威になっていたためです。
同盟の翌1580年はじめ、レンネンベルフ伯はフリースラントとフロニンゲンの両議会にこのことを図りました。しかし議員に新教徒の多いフリースラントでは激しい反対に遭い、議会は即刻レンネンベルフ伯を罷免します。そしてその後任にオランイェ公ウィレムを指名すると、間を置かずにレーワルデン市からカトリックの市民を追放しました。ある意味、レンネンベルフ伯の恐れていたような極端に走ったわけです。
一方、議員にカトリック、とくに好戦的なイエズス会士の多いフロニンゲンでは、レンネンベルフ伯の提案が受け入れられます。このことを知ったフロニンゲン出身の元海乞食の指導者バートルト・エンテンスは、同盟にフロニンゲンの危機を伝えると軍を集め始めました。しかし逆に、エンテンスの手紙を盗み見て彼らの襲撃が3月3日の昼と知ったレンネンベルフ側は先手を打つことにします。3月3日早朝、レンネンベルフ伯と旧教の参事員たちはフロニンゲン市の広場に600名の市民兵を集め、エンテンスとつながっていた新教徒の有力者たちを逮捕・投獄して、「ユトレヒト同盟」からの脱退とスペイン国王の支持を表明しました。
このクーデター騒動は、オランダの側から「レンネンベルフの背信」と呼ばれますが、レンネンベルフ伯はむしろ中庸をいく平和主義者で、裏切者呼ばわりはやや言い過ぎな気もします。この騒動の当日も、馬上で狂ったように叫んでいたといいますから、このような強硬手段を選択するのにかなり無理をしていたのかもしれません。
フロニンゲン攻囲戦(1580)
その日の夜、街の異変を知ったエンテンスは、そのままフロニンゲンの攻囲をはじめました。しかしこの攻囲も、エンテンスの戦死とスペインの援軍の到着により、3ヶ月ほどで放棄されます。 レンネンベルフ伯自身はこの翌年には病死しますが、議会はその政策を維持し続けました。また、州総督の後任には、スペイン軍の将軍フランシスコ・ベルデューゴが着任しました。
フロニンゲン包囲網
「ユトレヒト同盟」の前文には、「ヘルデルラント公国・ズトフェン領の人々、そしてエムス川とラウウェルス湖に挟まれたホラント・ゼーラント・ユトレヒト・オメランデンの人々は、より緊密に同盟し」と、同盟諸州の範囲が明記されています。エムス川はオランダとドイツの国境線にあたり北海に注ぐ河川、ラウウェルス湖はフリースラントとフロニンゲンのちょうど中心くらい、やはり北海に面した湖です。実は「ユトレヒト同盟」全文の中には「フロニンゲン」も「七州」の文言も無いのですが、フロニンゲン市および州がこの範囲に含まれるのは明白です。
フロニンゲンは市と州が同じ名前ですが、フロニンゲン市は古くから帝国自由都市として独自の自治性を重んじてきました。州内のフロニンゲン市を除いた周辺地域を「オメランデン」と呼びます。現代日本の、都道府県と政令指定都市の関係に近いでしょうか。
そのため、河口という玄関口を持つ飛び地のフロニンゲン州を同盟に「回復」するのは連邦議会にとっても最優先課題のひとつですが、個人レベルでいうと、おそらくナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクの動機がもっとも大きいといえるでしょう。叔父ルートヴィヒの遠征の失敗、父ヤン六世が設立した「ユトレヒト同盟」からの離反もさることながら、ウィレム=ローデウェイク自身1580年のフロニンゲン攻囲戦では若干20歳で参戦するものの成すすべもなく敗走していて、さらに1584年以降は隣州フリースラント州総督の地位にもあり、フロニンゲンに関しても、潜在的にその地位を要求できる立場にあります。ウィレム=ローデウェイクはフリースラント州総督となって以降、フロニンゲンとの州境の防備にも余念が無く、たとえば1589年にはザウトカンプの街の攻囲を成功させています。
1591年以降、ナッサウ伯の軍制改革の成果が出始め、共和国は徐々にその版図を広げていきました。川沿いの要地から攻める、という基本方針はありましたが、その実これは、究極的にはフロニンゲンに至る要所を押さえるということでもあります。1591年から1592年にかけて占領した東部諸都市のうち、ズトフェン、デフェンテル、デルフゼイル、ネイメーヘン、ステーンウェイク、クーフォルデンは、地図に点をプロットしてみればよくわかりますが、明らかにフロニンゲン包囲網とその援軍の遮断を目的としたものです。
1593年はいよいよフロニンゲンの攻囲と噂され、隣州のフリースラント州議会は連邦議会に遠征を強硬に働きかけました。が、前年にパルマ公が病死して南部を攻めるまたとない好機として、南部の都市ヘールトライデンベルフの攻囲が優先されます。この攻囲をボイコットしたフリースラントでは独自に準備を始め、マウリッツもヘールトライデンベルフ開城後に賠償金の一部と兵の一部をフリースラントに送りました。マウリッツが南部の防備のため動けない間、ウィレム=ローデウェイクはこれらの資金と兵力を率いてウェッデの街をはじめとした複数の砦を占領し、スペイン軍がドイツ側から侵入する進路を遮断すると、国境に美しい流星型の砦バウルタンゲを建設してさらなる包囲網の強化に成功しました。危機感を募らせたスペインの州総督ベルデューゴは、エムス河口の街デルフゼイルや要塞都市クーフォルデンの奪還を図りますが、これもいずれも失敗に終わっています。
戦闘
フロニンゲンの攻囲にここまで入念な準備が必要だったのは、その地理的な要因と同様、フロニンゲン市自体がヨーロッパ随一の強固な要塞であるという理由もありました。街の性格からも奇襲は望むべくもなく、攻囲には時間と資金がかかることが予想されていたため、失敗は許されず万全を期す必要がありました。法律顧問のオルデンバルネフェルトは、どこから系図を調べてきたのか、ブラウンシュヴァイク公にフロニンゲン領主の地位を提供して交渉でなんとかする方法も提案しました。しかし、そもそも自治権に凝り固まっている住民が今さらルター派領主の旧態然とした特権を振りかざしたところで応じるはずがない、としてウィレム=ローデウェイクによって一蹴されてしまいます。
5月22日、地勢的に利のある場所をキャンプ地に定めたオランダ軍は攻囲を始めました。マウリッツとウィレム=ローデウェイクは持てる知識を総動員して攻略方法に頭をひねる必要に迫られました。そして、周囲に小砦は建設したものの、複数箇所からアプローチを築いたり環状包囲を敷くのではなく、強固な本陣からのみ塹壕戦を仕掛けるストレートな方法が採られました。ジグザグに塹壕を掘り進んでじわじわと街に近づきつつ、地下では坑道も掘って地雷を仕掛け、同時にキャンプの外側では運河も掘って水運によって砲や補給物資を運ばせます。6月上旬には砲の配備が完了し、街に向かって砲撃も始められました。
この夏は大げさに「有史以来」と言われるほどの大雨が続き、当初計画のひとつにあった洪水線術は使わずに済みました。また、南ネーデルランドでのマンスフェルト伯の辞職および執政交代の煽りを受け、街に駐屯するスペイン兵の数は例年以上に少なく、ベルデューゴが近隣で募った義勇軍は「前衛に2人の狙撃手、主力に3人、後衛に3人の婦人と1人の司祭」という有様でした。ベルデューゴとファン・デン=ベルフ伯ヘルマンは、ネーデルランドに来たばかりの新執政オーストリア大公エルンストに援軍を要請し続けました。
困ったフィリップス
ヘールトライデンベルフで暴れたナッサウ伯フィリップスがまたもややらかしました。マウリッツは(自身が誰よりも酒好きにもかかわらず)規律遵守のため将校たちによる酒宴を禁止していましたが、従兄であるフィリップスが毎晩のようにそれを破るためほとほと頭を悩ませていました。
7月11日、ゾルムス伯エルンストのテントで酒盛りになったとき、何のノリかフィリップスは単身敵地の砦をひとつ取ってくると言い出しました。そして鎧も着けずに(ちょっと脱ぎ上戸の気があったようです)泥酔状態で馬にまたがると、槍1本持って本当にひとりで敵陣に向かいました。どうやら、翌日に抜け駆けで砦の下で地雷を爆破させようとしている奴が居る、ということを聞きつけ、それを先に自分ひとりでやったらカッコいいと思ったからみたいです。(かといって地雷になんで槍が要るのか意味不明ですが)。
当然この派手な行動はすぐに発覚し、無傷で済むはずが無いと、従者たちが慌てて彼を止めにいきました。さすがに今回ばかりはフィリップスも素直に従ったようです。
困ったマウリッツ
翌日、フィリップスの奇行に関する報告を確実に受けていたマウリッツですが、何事もなかったかのように自ら日課の視察に出ました。(司令官自身があちこち勝手に出歩くのは危ないので、これも議員たちからいつも怒られました)。この時はイングランド軍のフランシス・ヴィアー将軍が同行していましたが、敵陣から撃たれた弾丸が彼らの護衛たちに当たり、マウリッツも彼らと一緒に転倒してしまいます。
マウリッツとフランシスに怪我はありませんでしたが、これを見ていた議員のひとりが、危険な視察をやめさせる良いネタになると思い、オルデンバルネフェルトに報告しました。将校たちが毎日のように好んで無用な危険に晒されていては、議員たちも身が持たないというものでしょう。それでもまだこの時点では将校の大部分は若く、言って聞かせたところで聞くものでもなかったようです。
その数日後、東門の地下に地雷が敷設され、門の爆破の準備が整いました。この段階で、マウリッツとウィレム=ローデウェイクはいったん街に降伏勧告をおこないます。しかし街では援軍への期待を捨てきれず、申し入れを断りました。実際は、大公エルンストから援軍を命じられていたフエンテス伯は、スペイン軍内の暴動に手を焼いていて援軍を出せる状態ではありませんでした。15日、マウリッツは地雷の爆破を命じ、スコットランド兵を率いたナッサウ伯フィリップスが突破口から侵入します。ここに至って街は降伏勧告に応じ、条件の話し合いが持たれることになりました。
余波
双方の犠牲者はそれぞれ数百名ほどで、街の側からすると、最後の門の爆破の犠牲者だけでその半数以上を占めていました。1週間後の7月22日、「回復条約」は無事調印され、フロニンゲン州は「ユトレヒト同盟」に再加盟することになりました。古くから有している法や権利の保持を約すという条件で、ウィレム=ローデウェイクはフロニンゲン議会から州総督に選出されました。市民が街あるいは州内に残るのも出て行くのも自由とされ、去る場合も生命と財産が保証されました。スペイン軍の守備隊についても同様で、武器と物資を携行して退却してもよく、フロニンゲン市内にあった元州総督ベルデューゴの財産も持ち出しが許可されました。
宗教要項のみ若干の議論があり、あらかじめオルデンバルネフェルトの提示していた基本線に修正が加えられました。公式には公の礼拝は新教のみとされ、市当局の人員も新教の者が任命されましたが、個人の信教は不問とされました。これはイエズス会士が街に残ることまで黙認されるということを意味し、これにはフリースラント議会が不快感を示したほどです。実際は州総督のウィレム=ローデウェイクがプロテスタント化に積極的だったこともあり、聖職者の多くは南ネーデルランドへの亡命を選ぶことになります。逆に、この15年の間にカトリック市参事によって追放されていた新教徒の帰国が許可されました。
ここに挙げた地図はフロニンゲン市を中心に、バウルタンゲやクーフォルデン等の州内の要塞を配し、最上部にはウィレム=ローデウェイク以降の歴代フロニンゲン州総督が7人描かれています。顔だけ見て全員わかったらエラい(笑)! (画像を拡大すれば名前が書いてあります)。フロニンゲンは、八十年戦争期間中、もっとも州総督の顔ぶれが変わった州でもあります。
こうして共和国はフロニンゲン州を加え、以降は「七州」と呼ばれることになります。これ以降のフロニンゲンでは、都市と周辺地域をひとつの「州」として扱うことになり、各間の調整に若干手間取る部分もありましたが、翌1595年2月には都市と周辺地域が永久統一する旨が書面に記録され、現在まで至っています。
リファレンス
- Motley, “United Natherlands”
- Kikkert, “Maurits”
- Prinsterer, “Archives”