フラーフェ攻囲戦(1602) Beleg van Grave

Beleg van Grave door Maurits, 1602, RP-P-1944-2235

Simon Fokke (1756-1758) 「フラーフェ攻囲戦 (1602)」 In Wikimedia Commons

フラーフェ攻囲戦(1602) Grave 1602/7/18-9/20
対戦国

flag_nl.gif オランダ
flag_nl.gif フリース
flag_en.gif イングランド

flag_es.gif スペイン

勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯マウリッツ
ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク
ナッサウ伯エルンスト=カシミール
ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク
フランシス・ヴィアー卿
ホレス・ヴィアー卿
アラゴン提督フランシスコ・デ・メンドーサ
アントニオ・ゴンザレス

歴戦のイングランド軍ですら匙を投げたオーステンデ防衛。そのイングランド軍を加え、ナッサウ伯率いるオランダ軍主力はマース川沿いの街・フラーフェに向かう。オランダ軍はリターンマッチを目論むアラゴン提督をかわしつつ、三方からフラーフェを完全に囲み、数十もの砦を装備した大規模な環状攻囲を敷いた。

マウリッツ公の土木技術は、跳ね橋のついた水濠や充分な広さの塹壕も、5時間もあれば何の危険もなく完成させてしまう。

駐蘭フランス大使ブザンヴァル/ Prinsterer, “Archives”

経緯

Siege of Grave by Maurice of Orange (1602) - Gravia Obsessa et Expvgnata

Unknown (1649) “Atlas van Loon” 「フラーフェ攻囲戦 (1602)」 In Wikimedia Commons

オーステンデ防衛を尻目に、ナッサウ伯マウリッツら軍部は1590年代から続く一連の攻囲戦を計画していました。議会がフラーフェ攻囲の許可を出したのは、先年に失敗したスヘルトヘンボスにも近接していること、そしてブリュッセルにわずか1日の距離であるという理由です。ここを拠点にブリュッセル、ヘント、ブリュージュそしてオーステンデにまで撃って出ることができる、と議会は期待しました。しかしマウリッツ自身にとっては、フラーフェはマース川沿いの要衝――西への攻撃拠点ではなく東からの防衛拠点――としての意味しかなく、むしろ、その近郊のラント=ファン=クエイク(抵当に入っていた亡き父ウィレムの所領の一部)の収益のほうに興味があった可能性もあります。

1600年のニーウポールトへの行軍時が縦展開だったのに反して、中央をウィレム=ローデウェイク軍、左翼をエルンスト=カシミール軍、右翼をヴィアーのイングランド軍が横展開に行軍します。軍の規模は20,000人以上、ニーウポールトの2倍になろうかという数です。フラーフェ近郊に到着すると、冒頭の地図(北が上)のように、中央にウィレム=ローデウェイク、東に総司令官マウリッツとエルンスト=カシミール、そして西にヴィアーがキャンプを張ります。南に向かって行軍した状態と位置関係はそのままです。

対するフラーフェの街の駐屯兵は数百。その救援に向かったのはアラゴン提督メンドーサの軍でした。メンドーサ提督はニーウポールトの戦いの後にハーグで虜囚の身となっており、その後オランダ軍の捕虜全員に加え多額の身代金と引き換えに釈放されていました。いったんスペイン本国に戻った「提督」の彼が、再度オランダで陸軍を率いるつもりになったのは、ニーウポールトのリベンジの気持ちもあったのかもしれません。

戦闘

Beleg van Grave, 1602, RP-P-AO-16-130A

Baptista van Doetechum (1602) 「フラーフェ攻囲戦 (1602)」 In Wikimedia Commons

ニーウポールトの反省もあり、マウリッツはいつも以上に直接交戦を避けるのに慎重でした。この攻囲戦では、三方に分かれたキャンプから環状に街を囲む包囲線が建設されます。冒頭に挙げたブザンヴァルの報告のように、充分な質の工事が驚くべき速さで進められていました。この甲斐あって、メンドーサ提督がマウリッツのキャンプの向かいに陣を張った頃には、防衛線内に容易に入れないほどの陣容が整えられていました。なお、環状攻囲線そのものはこれが初めてではありませんが、1593年のへールトライデンベルフの頃はまだ緻密さに欠け、1597年の遠征では日数も少ないために小規模なものに留まっていました。のちのフレデリク=ヘンドリクの環状洪水線に通じる精度と規模で且つ、河川等天然の防衛線を用いず完全に土木建築のみで囲んだものは、これが初かもしれません。

そのフレデリク=ヘンドリクですが、このときちょうど従軍年齢の18歳になり、晴れて将校として参戦していました。フランシス・ヴィアー将軍が負傷して戦線離脱した際、その代役として英軍の指揮官に抜擢されたのは、フランシスの弟のホレスでも英軍の将校でもなく何故かフレデリク=ヘンドリクです。おそらくフランシス本人からの任命だとは思いますが理由はわかりません。自ら部隊を率いて半月堡を占領したりなど、デビュー戦としては悪くなかったようです。

攻囲は2ヶ月続きました。街が援軍を信じて持ち堪え続けていたためです。しかしメンドーサ提督の軍では、散発的な夜襲がことごとく頑強な防御に跳ね返されていました。また、街はアルプレヒト大公からの援軍をも期待していましたが、アルプレヒト大公の軍はオーステンデ攻囲との二方面作戦のうえ、給与の遅延による慢性的な反乱の対処のため、援軍を出すどころではない状態でした。さらに、反乱を企む将校や兵士を密告した者に報奨金を出すというシステムが、より隊内での不和を助長するという悪循環にも陥っていました。

訪問者たち

Beleg en inname van Grave door Maurits, 1602 Vray Pourtraict de la trefforte invadible ville de Grave assiegee par son exel. le conte Mauritius de Nassou (titel op object), RP-P-OB-80.621

Baptista van Doetechum (1602) 「フラーフェ攻囲戦 (1602)」 In Wikimedia Commons

ところでこの攻囲戦にも例年のごとく、ヨーロッパ各所から見学の人々が訪れました。彼らは出身地や信教を問われることなく、許可さえ得れば、マウリッツをはじめとするオランダ軍の将軍たちから直接教えを受けたり、日々の飲食を共にすることもできました。

そのような客人の中に、イタリア人のブリュエ伯ガストン・スピノラが居ました。マウリッツとの会食の席で、「オーステンデはトロイア戦争の様相を示してきたな」と語ったマウリッツに対し、ガストンは「オーステンデはトロイにはならないでしょう。彼の地には、オーストリアのアガメムノンも、オランダのヘクトルも、そしてイタリアのアキレスも居ませんからね」と言って、翌年オーステンデ攻囲戦に傭兵を率いて参戦することになる親族(セスト侯アンブロジオ・スピノラ)の存在をほのめかしています。

ブランデンブルク選帝侯ヨハン=ゲオルクの四男ヨアヒム=エルンスト(のちのアンスバッハ辺境伯)は、成人したてでフレデリク=ヘンドリクらと同世代でした。この攻囲戦の際は、司令官キャンプではなく、志願してエルンスト=カシミールのキャンプに詰めていました。前戦に出ては兵に混ざって石を投げてみたり、とにかく客扱いではなく戦力に数えて欲しかったようで、万が一のことがあっては一大事とエルンスト=カシミールは常に冷や冷やしていたようです。その後もハーグに居たようですが、翌年、アンスバッハ侯が男子の正嫡がないまま亡くなり、その跡を継ぐためオランダを去ることになります。

Charles Rochussen - Anno 1602. De gezanten van Atjeh bezoeken Maurits bij Grave - SA 4963 - Amsterdam Museum

Charles Rochussen (19th century) アチェ大使の訪問(歴史画) In Wikimedia Commons

めずらしい客人もキャンプを訪れています。1599年、探検家のハウトマン兄弟は東インド航海の最中、アチェでトラブルに見舞われ、弟のコルネリスは命を落とし、兄のフレデリクはアチェのスルタン、アラウッディン・リアーヤット・シャーに捕らえられてしまいました。その知らせを受けたマウリッツは、アチェへの軍事支援を約束するのでハウトマンらオランダ人たちを釈放してほしい、と贈り物を添えてスルタンに書簡を送っていました。

スルタンはその申し出に満足し、さらにアチェの大使3名をオランダへ連れて行くことを条件にハウトマンたちを釈放しました。7ヶ月ほどの航海の末ハウトマンが帰国したちょうどそのとき、マウリッツはフラーフェ攻囲戦の真っ最中だったというわけです。スルタンの大使たちはそのままキャンプに足を運び、大いに歓迎され、他の客人同様に見学もしました。 この訪問をきっかけにオランダとアチェとの条約が結ばれることになります。

余波

Grave brandschildering

フラーフェ街中のステンドグラス In Wikimedia Commons とりの紋章が非常にかわいらしい…。これも現在のオランダ王室のもつ紋章のひとつです。

9月20日に街は降伏し、守備隊は名誉ある撤退を認められ、住民たちも去るものは追わず、残りたい者は留まることを許可されました。カトリック信仰は公の場では禁じられたものの、厳しい取り締まりや迫害は行われませんでした。実はこの開城交渉がもう少し遅ければ、川の水位が上がり、せっかくの環状包囲網も用を成さなくなるところでした。オランダ軍にとっては、撤退を余儀なくされる前のぎりぎりのタイミングだったといえます。

その1週間ほど後の9月28日、マウリッツはラント=ファン=クエイク男爵に就任しました。フラーフェの街はこのラント=ファン=クエイクの中心都市で男爵領の一部ということになり、他の被支配都市のように連邦議会の管轄というわけではないため、比較的緩い支配下に置かれることになります。フラーフェが正式にオランダ共和国に属することになるのは、1648年のミュンスター条約でのことです。

メンドーサ提督は、このフラーフェ防衛の失敗を問われてスペイン本国に召還されてしまいました。アルプレヒト大公としては、現場を知らないこの本国の措置に頭の痛いところだったでしょう。スピノラ兄弟がフランドル方面軍に参加するのはこの後すぐのことです。

リファレンス

  • Motley, “United Natherlands”
  • Kikkert, “Maurits”
  • Prinsterer, “Archives”