対戦国 | オランダ イングランド |
スペイン |
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勝 敗 | – | – |
参加者 | ナッサウ伯マウリッツ ナッサウ伯エルンスト=カシミール ヴィアー卿フランシス |
反乱騎兵 1500名 反乱歩兵 3000名 ダヴレ侯シャルル=アレクサンドル・ド・クロイ |
八十年戦争最長の攻囲戦、オーステンデ攻囲戦。それと並行して、ホーホストラーテンで八十年戦争最長の反乱が発生していた。給与未払いに対しての実力行使、しかし理不尽にも、その行為は最高刑が死刑の重犯罪とみなされる。同時に、オーステンデを見捨てたヴィアー卿にマウリッツ公の本隊を加えたオランダ軍全軍が、フラーフェ攻囲戦に取り掛かっていた。オーステンデ、ホーホストラーテン、フラーフェ。スペイン本国からこれらの解決が厳命される。オーストリア大公は二方面作戦どころか、完全な四面楚歌に陥ってしまっていた。
あらゆる王侯たちが、殿下の悪しき政治を反面教師とするでしょう。古の偉大な司令官たち、キュロス、アレクサンダー、スキピオ、カエサルは、兵士を富ませこそすれ、飢えさせることなどなかったのです。
反乱兵の代表/”United Netherlands”
はじめに
「八十年戦争期のオランダ軍とフランドル方面軍」の「給料未払と反乱」項目に詳述しましたが、「Mutiny=反乱」は、主に給料の未払によって引き起こされる、兵士と雇用者側との労使交渉やストライキに近いものです。もちろん現代のそれとは全く違ってそのペナルティは凄まじく、起こす方は命がけです。「下」から行われるのが常で、上級将校は交渉材料として捕虜にされてしまうか、場合によっては殺されてしまうこともあります。このホーホストラーテンの反乱でも、まだ20歳そこそこのダヴレ侯シャルル=アレクサンドル・ド・クロイが捕虜にされていました。1600年の聖アンドリース砦の反乱のように、立てこもる強固な場所があった場合、反乱は長引きトップとの交渉に至ることもあります。
ホーホストラーテンの街に立てこもった反乱兵たちは、全てベテラン兵で構成されていて、ほとんどがスペイン人とイタリア人、騎兵1500名と歩兵3000名の計4500名でした。彼らはその「反乱」の名からは想像がつかないほどに礼儀正しく振舞っていました。「まるで盗賊ギルドのように」という表現がぴったりですが、その自治は徹底しており、住民に無体を働いた兵士は軍内で漏れなく処罰されました。オランダ(オレンジ)でもスペイン(赤)でもない、として兵たちは緑色を自分たちのアイデンティティとして用い、自分たちで組織した臨時政府ともいえる参事会が交渉を担当しました。イタリア人を多く含む反乱兵は、イタリアの「共和国」の概念にオランダ共和国のやり方を加えて独自の「共和国」を模索したようです。兵士たちの中には知識層も相当数含まれていたと考えられます。ホーホストラーテンの街自体がもともと強固な砦を備えていましたが、反乱兵は当番制で夜営をし、さらに要塞の防備も固めました。周囲の封鎖は行われなかったため、近隣の農村から物資も問題なく調達でき、長期戦も可能な状況でした。
経緯
ニーウポールトの戦いのすぐ後のこの時期、南ネーデルランド執政府はその見返りにオーステンデ攻囲を試みます。オーステンデは結果的に3年以上もかかる、八十年戦争最長の攻囲戦となってしまうわけですが、もちろん当初はそんなにかかるとは誰も思っていなかったでしょう。オーステンデが長引いた理由は、攻囲戦そのものに加え、この時期目白押しの他の戦いも理由となっています。
- 1601年7月 オーステンデ攻囲戦開始
- 1601年7月 ラインベルク攻囲戦 →オランダのラインベルク確保により、陸の「スペイン街道」の利便性が激減
- 1601年11月 オランダ軍のブラバント侵攻 →オランダ側はスヘルトヘンボス攻囲戦を失敗、しかしスペイン側はメンドーサ提督などの人手をとられる
- 1602年3月 ヴィアー将軍とエルンスト=カシミール将軍がオーステンデを離れる →英独両連隊がフリーに
- 1602年7月 フラーフェ攻囲戦開始 →メンドーサ提督の派遣、防衛失敗によるスペイン召喚
- 1602年9月 ホーホストラーテンの反乱開始
- 1602年10月 ドーバー海峡の海戦 →海の「スペイン街道」でスペイン軍の給与を運んできた艦隊の敗戦
- 1603年5月 スライスの海戦 →海の「スペイン街道」でスペイン軍の給与を運んできた艦隊の敗戦
- 1603年8月 オランダ軍のスヘルトヘンボス攻囲戦(-11月)、再度失敗
もともと慢性的に給与は遅れていましたが、2.のラインベルクでライン川の「スペイン街道」を抑えられ、さらに給与は遅滞しました。これは全フランドル方面軍の給与の遅延に関わるため、ホーホストラーテン以外でも、例えばメンドーサ提督の軍内にも反乱は頻繁に発生しています。さらに7.8.で海路で運んできた資金もすべて海戦によってカットされてしまい、反乱軍との交渉に使うつもりの給与はいつまで経っても南ネーデルランド執政のアルプレヒト大公のもとには届きませんでした。
ホーホストラーテンの反乱は、まさにこの版画にある時期、オランダ軍内でも最強のイングランド連隊とドイツ連隊がオーステンデから解放されたことで、万全の態勢でフラーフェ攻囲を始めた時期にあたります。
この版画の左上、イングランド連隊の前の先頭を行く「ラレン」連隊の名がみえます。ジョルジュ(またはアレクサンダー?)・ド・ラレン、なぜこの位置かと考えたら、ホーホストラーテン伯の継承権を持っているか、または「Drost」の表記からこの地域の役人のポストを提供されているかして、旗印として担がれたものと思われます。ジョルジュにしてもアレクサンダーにしてもなかなか家系図にも載ってこない人物なので、なぜオランダ側にいるのか?等(ラレン家の親族は大概スペイン側)詳細はわかりませんでしたが、残念ながらこの後すぐ1604年のスライス攻囲戦で戦死しているようです。レンネンベルフ伯ジョルジュ・ド・ラレンとは別人です。
戦闘
反乱兵たちの要求はシンプルなたった一点、「給与」です。初期は非常に強気でした。アルプレヒト大公は当初、使者として聖職者を1名で派遣して説得を試みましたが、あまりに彼が冷たくあしらわれたのに激怒し、ホーホストラーテンにいるすべての兵と「参事会」の法的権利を奪う(=ban)とした檄文を作成してばらまきました。さらに、仲間を売った者には報奨金を出した上、反乱の罪も殺人の罪も免除する、としましたが、もちろんそれに呼応する者は1人も現れません。それを聞いたフラーフェ攻囲中のオランダ軍総司令官のマウリッツ公は、聖アンドリース砦の二匹目のドジョウを狙って反乱兵に書簡を送りましたが、それも大公の使者と同じ目に遭い、書簡が兵たちの前で見せしめに燃やされました。マウリッツの書簡を持ち込んだトランペット吹きがそれに不快感を表明したところ、さすがにまずいと思ったのか、オランダ側とは交渉の窓口が開かれることになりました。(ある意味オランダにとっては災い転じて福となった格好です。)
反乱兵はホーホストラーテンに立てこもったまま冬を越し1603年になりました。アルプレヒト大公は前年の対応を少し反省し始めていました。空中分解もせず長期間まとまっている5000人(当初の4500人から少し増えました)もの古参兵は、全員吊るしてしまうには惜しい、というよりも、オーステンデに苦戦しているいま、逆に喉から手が出るほど欲しい戦力でした。かといって、反乱兵が要求している給与の調達はことごとく妨害に遭い、なかなか金銭を工面することができません。
1603年7月末、アルプレヒト大公はオーステンデにいるファン・デン=ベルフ伯フレデリクに10000の兵を与え、ホーホストラーテンを攻めるよう命じました。街は全兵力の半数に当たる2500人でそれに対抗しようとします。スヘルトヘンボス攻囲のため、ちょうどヘールトライデンベルフにいたマウリッツは、反乱兵たちを救援しようと12000を超す全軍をホーホストラーテンに向けました。ファン・デン=ベルフ伯フレデリクは、反乱兵のためにわざわざ従弟でもあるマウリッツと野戦をする気はなく、夜のうちに兵を引きました。
8月3日、マウリッツはホーホストラーテンの街に入りました。マウリッツは彼らがアルプレヒト大公と和解するまで保護する代わりに、オランダ軍とは今後戦わないと約束させました。また、昨年奪還したばかりのフラーフェの街を駐屯地として提供したばかりか、そこまでの移動に必要であれば騎兵での護衛まで申し出ました。実際にこの冬、反乱兵たちはフラーフェで快適に過ごしています。
アルプレヒト大公はこれに非常に焦り、スペイン本国や議会の反対にもかかわらず、反乱軍側の要求に完全に従うことにします。1604年5月、延滞した給与がようやく準備でき、大公は彼らに書面で恩赦を認めることになりました。
1603年10月、オランダ軍の軍法会議の長官でオランイェ公ウィレム1世の時代からの古参の軍人オリバー・ファン・デン=テンペルは、ホーホストラーテンの反乱兵の捕虜になっていたスペイン軍のマラスピナ侯を捕らえました。スヘルトヘンボス攻囲中のマウリッツのキャンプで食事をした後2人で戻る途中に、テンペルはスヘルトヘンボスからの大砲の流れ弾に当たり亡くなっています。このとき反乱兵たちはクエイク(フラーフェの近く)やフレイメン(スヘルトヘンボスの近く)に展開していたというので、彼らも常に街に籠っていた…というわけでもなさそうです。
余波
反乱を起こすのは貴族や将校ではなく一般兵士たちなので、その代表者の名前が残されることはあまりないようです。このホーホストラーテンの反乱の場合も、3年と長期にわたったにもかかわらず、兵の代表者が選挙で選ばれていたこと(参事会の署名も「選出者 Eletto」名義でした)から、余計に個人の特定が困難になっています。給与と恩赦を手に入れた兵士たちは、それぞれオランダ軍に加わるかスペイン軍に出戻るかを選べました。ほとんどがオランダに加わった、と書かれた資料もありましたが、この時点のオランダ軍に聖アンドリース砦の「新乞食」のようなまとまった単位での外国人で構成される軍の加入がないことから、実際は反対で、大半はスペイン軍に戻ったのではないかと推測されます。
これは反乱が「成功」した非常に稀なケースです。繰り返しますが、通常、反乱は重犯罪扱いで恩赦はありません。全員を罰することが物理的に難しい場合、何人かの代表者またはクジ引きに当たった不運な者が残虐な刑罰に処せられます。しかも、オランダ軍への転向、スペイン軍への帰参、どちらを選んでも良いという好条件はほかに類を見ないと思われます。ベテランで構成されたこの反乱兵たちは、反乱のデメリットを熟知したうえで、相当な準備で臨んだに違いありません。それでも確たるリーダーもなく5000人が3年もの間一枚岩でまとまっていたというのは、脅威以外の何物でもありません。
ここに挙げたコインはちょうどこの時期、オーステンデ攻囲戦の寓意としてオランダで鋳造されたイソップ童話をもとにしたコインです(絵は『おんどりときつね』ですが、内容は『からすときつね』とのこと)。オーステンデへの恩赦を申し出たアルプレヒト大公に対する皮肉で、「甘い言葉に気をつけろ」と揶揄している内容です。が、マウリッツのホーホストラーテン反乱兵への甘い言葉があまり顧みられなかったという意味では、逆に強烈なカウンターに見えてしまいます。
だいぶ前の2013年に、この反乱を元ネタにしたイソップ童話(?)を書いておりました。イソップを選んだのはたまたまです。今回ちゃんと見たらオチは少し違ってましたが…。
えほん「きたかぜとたいよう」(1602) ~アルプレヒトでんかとマウリッツかっか
ちなみに、「へいし1人のくびにつき10クラウン、しょうこうのくびで50クラウン、もっとえらいしょうぐんのくびなら200クラウン」はホントです。
リファレンス
- Motley, “United Netherlands”
- Prinsterer, “Archives”