対戦国 |
オランダ |
スペイン |
---|---|---|
勝 敗 | ○ | × |
参加者 | ナッサウ伯マウリッツ ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイク ナッサウ伯フィリップス フランシス・ヴィアー ゾルムス伯ゲオルク=エバーハルト |
パルマ公アレサンドロ・ファルネーゼ パルマ公ラヌッチョ・ファルネーゼ マンスフェルト伯ペーター一世エルンスト |
後の世に「パルマ公の九年」「マウリッツの十年」と呼ばれるようになる、それぞれの総司令官の名を冠した攻勢の時代。八十年戦争間の数百数千にものぼるスカーミッシュの中に埋もれてしまうような「クノッセンブルフ砦」攻防は、そんな2人の司令官がほんの一瞬重なった稀有な戦いである。もっとも、「重なった」というより、わずかに「触れた」といったほうがより正確かもしれない。
マウリッツ公は私と戦いたがっているという。もちろんそのような機会があれば、決して彼を失望させないとお約束しよう。万一私の側が不運に見舞われたとしても、少なくとも、そのような人物に敗れる、という名誉には甘んじて浴するつもりだ。
フランシスコ・ベルデューゴ/ Motley, “United Natherlands”
経緯
1591年遠征は5月から10月まで、
- ズトフェン攻囲戦 1591/5/19-30
- デフェンテル攻囲戦 1591/6/1-10
- デルフゼイル奪還 1591/7/2
- クノッセンブルフ救援 1591/7/20-25
- フルスト攻囲戦 1591/9/20-24
- ネイメーヘン攻囲戦 1591/10/17-21
と続いていくのですが、時系列よりも内容の関連性を重視してこの2つをまとめています。
ズトフェンとデフェンテルを奪還したあと、オランダ軍には、
- 北上してフロニンゲン攻略の足掛かりをつくるか
- 南下してネイメーヘン攻囲を行うか
のふたつの選択肢がありました。フリースラント州総督のナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクの要請で前者の北上策が採られます。ナッサウ伯マウリッツは、北部での作戦に変更があった場合を考慮してデフェンテルに3週間ほど留まっていました。そしてその間にネイメーヘンの川向かいにあるクノッセンブルフ砦のみを押さえておくことにし、この周辺のスペイン軍を追い払ってから北に移動しました。
一方、スペイン本国の国王フェリペ二世の意向によってフランスのユグノー戦争に介入していたパルマ公アレサンドロ・ファルネーゼは、再度ネーデルランドへ戻り、奪われた街を再奪還するよう命じられました。ライン川に沿ってヘルデルラントへ入ったパルマ公には、
- 北上してフロニンゲンのオランダ本隊を叩くか
- そのままヘルデルラントを回復するか
の選択肢がありました。こちらは後者を採り、まずはマウリッツが奪っておいたクノッセンブルフ砦の奪回を試みます。パルマ公の駐屯地は、アルンヘムとネイメーヘンのちょうど間にあり、ワール川・ライン川2つの大河に囲まれた大きな中洲でした。
オランダ議会は、北部でデルフゼイルをはじめとしたいくつかの街を占領していた本隊に、急遽戻ってくるよう救援依頼を出しました。
戦闘
クノッセンブルフ救援
北部ステーンウェイクの攻囲戦を諦めてヘルデルラントに戻ってきたマウリッツは、まずは7月20日、ネイメーヘン北のアルンヘムに入ります。従兄のウィレム=ローデウェイクを北の守りに置いてきてしまったため、マウリッツは再度イングランド軍のヴィアー将軍を呼び、なにか良い方策がないか案を出させました。7月22日、パルマ公が砦に砲撃を始めたため、なかなか許可をださない議員をたき付けて、7月24日、マウリッツがヴィアーに提供した1200人の歩兵と500名の騎兵による奇襲が決行されることになりました。
ヴィアーはまず早朝に200名の英軍の騎兵の精鋭たちを相手キャンプに突っ込ませ、キャンプの守備兵を蹴散らして、戦利品と捕虜を持ち帰らせました。その後いったん退却することにして、マウリッツの本隊と合流します。そして合流した全軍は道端の藪に30分ほど潜んでいました。
すると、最前線にいた800名ほどの兵たちが迫ってくるスペイン軍を見つけ、誰の命令もなくそれに突撃していきました。無謀で統制のないこの集団は当然の帰結として総崩れになり、ほうほうの体で敗走を始めます。そしてヴィアーたち本体の隠れている土手道の前を通りました。そこですかさずヴィアーは兵たちに一斉射撃を命じます。思わぬ伏兵の攻撃に、今度はスペイン兵が敗走する番でした。800名ほどいたスペイン騎兵のうち、実に200-300名が捕虜になりました。
本陣から自軍のベテラン騎兵たちが崩壊した様を見ていたパルマ公は、中洲という立地条件の不利さを悟り、即座に砦の攻囲を取りやめ、夜のうちに渡河して、ネイメーヘンに撤退しました。
パルマ公のもとにはまたもやスペインから、フランスに転戦するよう指示がきます。体調を崩していたパルマ公は、その途中にスパで療養しようと、イタリアから着いたばかりの長男ラヌッチョを連れて、10日後の8月4日には早々に退却を始めました。パルマ公の出発を見たマウリッツの軍は、すぐにアルンヘムの駐屯地を出発し、次は南部のフルストに向かうことになります。
ネイメーヘン攻囲戦
南部でフルストを陥落させたのち、本来冬営に入っても良い時期だったにもかかわらず、マウリッツは再度ネイメーヘンに現れました。パルマ公が去ったことで、街の防備は3ヶ月前とは比べ物にならないほど弱体化しており、この好機を逃すべきではないと判断したと思われます。今度は北部からウィレム=ローデウェイクも援軍に駆けつけました。
攻囲の方法はズトフェンやデフェンテルと同じです。ワール川の川幅は広く、深さもあるので、浮橋の建設は10月14日から3日がかりになりました。川のこちら側のクノッセンブルフ砦からも砲撃が加えられます。10月20日にマウリッツは降伏勧告を申し入れますが、街は即座にそれを拒否しました。そこでマウリッツは、すべての砲撃陣地に一斉砲撃を許可します。翌日、耐え切れずに街は降伏の交渉団を派遣しました。
余波
ネイメーヘンのケースは、「降伏勧告を蹴った場合には容赦しない」というアピールになったと同時に、それでも開城後の条件は、ズトフェンやデフェンテルと同様、当時の慣習に従えばかなり寛容なものとなりました。とくにこのネイメーヘンの場合は、市参事会員こそ全員改革派の人物にすげ替えられたものの、カトリックの信仰自体は禁止されませんでした。
パルマ公とマウリッツが直接同じ戦場で戦ったのは、これが最初で最後です。とはいえこの散発的戦闘では、どちらの軍も、彼らが陣頭指揮を執っていたわけではありません(いちおうマウリッツはその場にいましたし、パルマ公からも直接見えてはいましたが)。そして翌日には互いに退いているので、やはり「ニアミス」という表現がいちばん近いかもしれません。
長年の激務で身体を壊していたパルマ公は、スパで療養後ルーアンで重傷を負い、それがもとで翌年亡くなります。逆に翌年以降もマウリッツの快進撃は続くことになります。
リファレンス
- Motley, “United Natherlands”
- Markham, “Veres”
- Firth, “Tracts”
- Kikkert, “Maurits”