オランダ共和国歩兵連隊長リスト(暫定版)

Inspectie van het leger van Maurits in slagorde bij Neuss, 1610 Verzeichnus welcher gestalt Graff Moritz sein kriegsleut bey Neus in gegewart beyder Fursten van Brandenburg und Newburg gemustert und , RP-P-OB-78.785-354

Frans Hogenberg (1610-1612) 1610年7月25日 ノイスでの閲兵 In Wikimedia Commons ユーリヒ攻囲に向け、ナッサウ伯マウリッツがブランデンブルク選帝侯とノイブルク公に軍隊を見せている図

オランダ共和国陸軍元帥リストに続き、歩兵連隊および連隊長リストを作成してみました。こちらも暫定版です。「八十年戦争期のオランダ軍とフランドル方面軍」の「階級とトップ・コマンド」の表にある「連隊」が対象です。連隊長は「Kolonel / Colonel」。17世紀のオランダ共和国軍については、「総司令官」と「元帥」にあたる人物が各1名ずつしか存在しないため、連隊長が実質上の「将軍」に近い扱いとなります。

マウリッツ公がコレクションしていた画家ラーフェステインによる将校たちの肖像(「オランダのロイヤル・コレクション事始め」参照)に、連隊長の該当者が多かったのも嬉しいポイントです。おそらく、人物の特定がされていない「ある将校の肖像」の中にも連隊長はたくさん含まれているはずです。現代の軍隊の上級将校同様、彼らは非常に知的水準が高く、その意味でも幼少期から基礎教育を受けている貴族出身者が多いといえます。

「Dutch Armies of the 80 Years’ War」内に記載の表をベースにしましたが、この表はリスト形式ではなく、名字だけ書かれていて人物の特定ができない場合もありやや不便な表となっています。そのため連隊に便宜上付番し(※おそらく実際はそう呼ばれていない可能性が高いので引用注意※)掲載順も変更したうえで、自分がいちばんわかりやすいと考える形式のリストに書き直したつもりです。連隊自体は反乱期からありましたが、ここでは共和国成立の1588年を起点にし、1648年のミュンスター条約までの60年間をピックアップしました。とにかく人物の情報が少なく、特定に手間取りました。1/3くらいは人物の詳細情報までたどり着けていません。

<凡例>
特定したものの情報不足 … 原語スペルのまま、または「?」を付記
死亡による代替わり … 「†」
名ばかり連隊長(代行者あり) … ()カッコ書き
その他、空位、新設、廃止等は()カッコ書き
正式承認 … 共和国が給与を支払う主体になったという意味
騎兵大隊長と兼任 … 太字

北部七州内の歩兵連隊

Vereenigde Provincien der Nederlanden. Vaandeldrager Garde van ... 1600 (NYPL b14896507-91649)

The Vinkhuijzen collection of military uniforms In Wikimedia Commons オランイェ公護衛隊の隊旗

予算が州別なためか、連隊も州単位です。金持ち州かどうかが如実に表れています。

ホラント連隊

Portret van Willem Adriaen (?-1625), graaf van Hornes, heer van Kessel en Westwezel Rijksmuseum SK-A-561

ホールネ伯ウィレム=アドリアーン In Wikimedia Commons

軍費の6割を捻出しているだけあり、やはりホラントが連隊数ではいちばん。ただしやる気ないのか空位や廃止もちらほらあります。意外と第一連隊長(代行者)の人物情報が少なく特定が難しい。ちなみにフレデリク=ヘンドリクは1593年時点では9歳なので、報酬名目だけのお飾りです。第六連隊以降はだいぶ後から設立なので、廃止の第二・第三連隊の復活かもしれません(未確認)。現場でよく名前が出てくるのは第六連隊のペインセン連隊長です。

  • ホラント第一連隊(北ホラント連隊)
    • 1588 (空位)
    • 1590 ウィレム=ヤンスゾーン・ファン・ドルプ†
    • 1592 アーレント・ファン・ダイフェンフォールデ?†
    • 1593 (ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク:代行あり)
      • 1593 (代行:アーレント・ファン・ダイフェンフォールデ†)
      • 1602 (代行:Willem?Aernout? van Zuylen van Nijevelt?†)
      • 1608 (代行:Pieter van Dorp?)
      • 1628 (代行:Hans Willem van Randwijck?)
      • 1631 (代行:ハーナウ=ミュンツェンベルク伯ハインリヒ=ルートヴィヒ†)
    • 1636 ナッサウ=ジーゲン伯ハインリヒ
  • ホラント第二連隊
  • ホラント第三連隊
    • 1586 ホールネ伯ウィレム=アドリアーン(父)
    • 1605 (空位:代行あり)
    • 1613 (廃止
  • ホラント第四連隊
  • ホラント第五連隊
  • ホラント第六連隊(燧石第一連隊 “Vuurvoer”)
    • 1632 ウィレム・ペインセン・ファン・デル=アー
    • 1637 (空位)
    • 1640 ヨハン・ホイヘンス?†
    • 1640 ノールトウェイク卿ウィークボルト・ファン・デル=ドゥース
  • ホラント第七連隊

ゼーラント連隊

Portret van Willem de Zoete de Laeke (?-1637), heer van Hautain Rijksmuseum SK-A-549

ウィレム・デ・スーテ In Wikimedia Commons

伝統的にマウリッツ前に元帥を務めたヨースト・デ・スーテの一族が占めることが多く、スライス知事とも兼任しています。ニーウポールトの戦い(の前哨戦であるレフィンゲの戦い)でいったん壊滅、その直後オーステンデ攻囲戦でも使い捨て状態と何かと大変な目に遭ってる連隊。さらに休戦期以降はゼーラントらしく海軍提督と兼任なので、ポストはほぼ無きに等しい。1637年以降は空位。

ユトレヒト連隊

Portrait of an Officer, presumably Anthonis van Utenhoven by Jan van Ravesteyn and workshop Nationaal Militair Museum MH423

アントニー・アイテンホーフェ In Wikimedia Commons

ゼーラント連隊同様オーステンデ攻囲戦に投入され、複数の連隊長が死亡。あまりメインの連隊ではないためか、人物情報が少ないです。ディーデン卿は「ヴェーゼル攻囲戦(1629)」時のスパイ報酬としてこのポストを得ているとも書かれていましたが、時系列が逆なのでその説はおそらく違います。

  • ユトレヒト連隊
    • 1590 ヌフヴィル卿アーレント・ファン・フルーネフェルト
    • 1599 フフテンブルク卿ヨハン
    • 1601 Johan van Loon?†
    • 1604 アントニー・アイテンホーフェ†
    • 1626 ディーデン卿オットー・ファン・ヘント
    • 1628 (正式承認)
    • 1641 Arnold Brant?
    • 1641 ウィルプ=ウルペン卿ヨハン=アドルフ・ファン・レネッセ

ヘルデルラント連隊

Walraven van Heeckeren (1570-1645)

ワルラーフェン・ファン・ヘーケレン In Wikimedia Commons

こちらもあまりメインの連隊ではないためか、人物情報が少ないです。

  • ヘルデルラント連隊
    • 1589 (空位:代行あり)
      • 1589 (代行:アーレント・ファン・ブリーネン†)
      • 1602 (代行:George?Alexander? de Laling, Heer van La Mouillerie?†)
      • 1604 (代行:ワルラーフェン・ファン・ヘーケレン?)
    • 1607 Derk van Dorth†
    • 1625 Philip van Varick†
    • 1628 (正式承認)
    • 1639 ミュッシェンベルフ卿ウォルター・ファン・ブリーネン†
    • 1646 ドーナ伯フリードリヒ

オーフェルエイセル連隊

成立は遅いものの、フリントロック式銃士だけをそろえた連隊としてはホラント第六連隊に次いで2つめと、ちょっと特殊な連隊。ウェインベルヘン連隊長も、ホラント第六連隊のペインセン連隊長と同じく、現場でよく名前を見ます。第二連隊ができたのは八十年戦争期の戦闘が既になくなった1647年なので、詳細は記載していません。

  • オーフェルエイセル第一連隊(燧石第二連隊 “Vuurvoer”)
    • 1632 ローデウェイク・ファン・ウェインベルヘン
  • オーフェルエイセル第二連隊

フリースラント連隊

第一連隊はフリースラント州総督が名目上のポストを占め、副連隊長に代行させていました。正式な成立は1580年と早いものの、分割して増やされたのは1630年以降と遅く、州総督ヘンドリク=カシミールとフリースラント議会の不仲が原因かと思われます。

フロニンゲン連隊

フリースラントと状況は同じく州総督がトップ。代行者の記載がなく、フリースラント連隊と共通?かもしれません。エルンスト=カシミール死後に州総督以外が連隊長となります。第二連隊ができたのは八十年戦争期の戦闘が既になくなった1647年なので詳細は記載しません。

外国の歩兵連隊(南ネーデルランド含む)

Pamphlet

1590年代のイングランド軍のフォーメーション In Wikimedia Commons

共和国自身の連隊並に外国連隊も数を揃えており、質の面でも見劣りしないどころか、おそらくオランダ連隊より上かもしれません。ドイツとワロンはほぼナッサウ伯の専売特許。それも含め、30-50年の長期で同一人物や同一家系で運営している連隊が多く、各国必ず少なくとも1連隊は、安定したベテランの力を保ち続けています。

ドイツ連隊

Hendrik Trajectinus, Count of Solms

ゾルムス=ブラウンフェルス伯ハインリヒ=トラヤクティヌス In Wikimedia Commons

原則ナッサウ伯(その後姻戚のゾルムス伯)が率い、名前こそドイツなものの、ほぼホームな連隊。彼らはホラント連隊の地位が名目上の地位で、実際に戦場で率いているのはこちらのドイツ連隊です。

ワロン連隊(「新乞食」)

Portret van Charles de Levin heer van Famars, Forimont en Lousart Rijksmuseum SK-A-547

レヴァン兄弟の父シャルル・レヴァン In Wikimedia Commons

聖アンドリース砦攻囲戦(1600)でスペイン軍から寝返って以降、なぜかナッサウ伯麾下となり、なんだかんだ息が長く活躍した連隊(たぶん共和国の最後まで存続)。「新乞食」を自称しました。

イングランド連隊

Portrait of an Officer, possibly Adolf van Meetkerken, by Jan van Ravesteyn Het Loo Palace

アドルフ・ファン・メートケルケン In Wikimedia Commons

ヴィアー兄弟がトップの内は(といってもそれが共和国軍設立当初から40年以上とめちゃくちゃ長く、全期間の2/3を占める)、練度が高くいちばん頼りになった連隊。第一連隊のみだったのを、フランシス・ヴィアーの退役後の1605年、3人の副連隊長の人数に合わせて三分割しています。同姓同名が多く、スコットランド連隊以上に人物情報の取得に苦戦しました。

フランス連隊

Portret van Syrius de Bethune (-1649), heer van Cogni, Mareuil, le Beysel, Toulon, Conegory en Chastillon, SK-A-548

コニー卿シリウス・ド・ベテューヌ In Wikimedia Commons

他連隊は便宜上付番していますが、フランス連隊は以下の名称どおりの番号で呼ばれていました。第一連隊は安定のガスパール・コリニー指揮下で、こちらは単独で35年と超長期政権となっています。ローベスピーヌは複数のソースで、1640年代にやっと連隊長…と認識していたので、この第三連隊の扱いはよくわかりませんでした。フランス連隊長は、その性格からも基本的に全員ユグノーなはずです。

  • フランス第一連隊
  • フランス第二連隊
    • 1602 Guillaume d’Hallot, Seigneur de Dommarville et de Guichery?†
    • 1605 コニー卿シリウス・ド・ベテューヌ(子)?
    • 1613 クルトメ男爵ジャン=アントワーヌ・ド・サン=シモン
    • 1629 メゾヌーヴ卿イサーク・ド・ペルポンシエール
    • 1645 ロージュ卿シャルル
  • フランス第三連隊
  • フランス第四連隊
    • 1625 第七代カンダル伯アンリ・ド・ノガレ・ド・ラ=ヴァレット
    • 1639 フィリップ=アンリ・ド・フルーリー・ド・クーラン
    • 1641 デストラーデ伯ゴドフロワ=ルイ?
  • フランス第五連隊
    • 1634 エルキュール・ド・ジラール・ド・シャルナセ†
    • 1637 Plessis de, Louis, Seigneur de Douchant?

スコットランド連隊

Portret van Sir William Brog (1563 - 1636) Rijksmuseum SK-A-559

ブログ卿ウィリアム In Wikimedia Commons

第一・第二は反乱初期からある古い連隊。第二連隊は隊長が殺害された後20年近く経って、別途新たに第二連隊の名で設立されました。第一連隊では、とくにブログ卿の時期が30年近い長期になっています。イングランド同様、スコットランドも同姓同名が多すぎなんですが、データベース充実のおかげで特定は比較的容易です。他連隊よりもいわゆる「成り上がり」が多く、立身出世物語に事欠かないという特徴も。

  • スコットランド第一連隊
    • 1586 バルフォー卿バルトルド(父)
    • 1594 アレクサンダー・マレー=ドラムデュワン†
    • 1595 (正式承認)
    • 1599 エドモンズ卿ウィリアム†
    • 1606 ブログ卿ウィリアム†
    • 1635 サンディランド卿ジェームス†
    • 1639 ジェームス・エルスキン
  • 旧スコットランド第二連隊
    • 1583 (共和国成立前に廃止
  • スコットランド第二連隊
    • 1604 バクルー男爵ウォルター・スコット(父)†
    • 1612 トゥネガスク卿ロバート=ヘンダーソン(兄)†
    • 1622 ヘンダーソン卿フランシス(弟)†
    • 1628 ハルケット卿ジョン†
    • 1629 バルフォー卿デイヴィッド(兄)†
    • 1639 ダグラス卿アーチボルト†
    • 1639 ジョン・カークパトリック
  • スコットランド第三連隊
    • 1629 初代バクルー伯爵ウォルター・スコット(子)
    • 1633 Sir Thomas Livingston?
    • 1640 バルフォー卿フィリップ(弟)
    • 1646 第二代ロクスバラ伯ウィリアム・カー

その他

以下はすべて1647年に解散されているため、三十年戦争期の一時的な増設と思われます。2つのドイツ連隊は同日に3000名で新設されたとのこと。ファン・デン=ベルフ連隊はファン・デン=ベルフ伯の転向と共に加入、ファン・デン=ベルフ伯自身の隠居のため2年後に数を半減して正式に組み込まれました。

  • オストフリースラント第一連隊
    • 1629 トマス・フェレンツ(兄)
  • オストフリースラント第二連隊
    • 1629 Johan van Loo?
    • 1635 (空位:代行あり)
      • 1635 (代行:エノ・フェレンツ)
    • 1641 エノ・フェレンツ(弟)
  • 新設ドイツ連隊(1)
    • 1631 ヘント男爵ワルラーフェン
  • 新設ドイツ連隊(2)
    • 1631 エルンハート・エーレントライター?
  • ファン=デン=ベルフ連隊

リファレンス

  • de Groot,B., Dutch Armies of the 80 Years’ War, 1568-1648 (1): Infantry, Osprey Pub Co, 2017
  • van Nimwegen, The Dutch Army and the Military Revolutions, 1588-1688, 2010
  • SSNE database the University of St Andrews
  • Soldaten-genealogie
  • Dutch regiments Het Staatse Leger 1572-1795