対戦国 |
オランダ |
スペイン |
---|---|---|
勝 敗 | ○ | × |
参加者 | オランイェ公フレデリク=ヘンドリク ナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミール ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレム コリニー伯ガスパール三世 ティルベリー男爵ホレス・ヴィアー リンブルク=シュティルム伯ヘルマン一世オットー ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツ ナッサウ=ディーツ伯ヘンドリク=カシミール ブレーデローデ卿ヨハン=ヴォルフェルト ナッサウ=ベフェルヴェールト伯ローデウェイク トマス・ファン・スターケンブルック ウィレム・ペインセン・ファン・デル=アー ブイヨン公フレデリク=モーリス・ド・ラ・トゥール=ドーヴェルニュ ハーナウ=ミュンツェンベルク伯ハインリヒ=ルートヴィヒ 第十九代オックスフォード伯ロバート |
サンタ=クルズ公アルバロ二世・デ・バザン マラテーア公ゴンザロ=フェルナンデス・デ・コルドバ パッペンハイム伯ゴトフリート=ハインリヒ (エスピナル侯カルロス・コロマ) (ナッサウ=ジーゲン伯ヤン八世) |
「重要事項につき内密に協議したく、極秘での訪問を許可されたし」。それはハーグに届けられた、ヴァルフュゼ伯の一通の手紙から始まった。スヘルトヘンボス奪還から3年、その間、マントヴァ継承戦争に巻き込まれ、有形無形の多くのものを失っていたスペインでは、南ネーデルランドにも少なからぬ不穏分子を抱えていた。内応の申し出に乗じ、連邦議会とオランイェ公はマース川沿いの遠征を計画する。
そうパッペンハイムのことばかりご案じ召さるな。我が軍とこの攻囲網をご覧じれば一目瞭然なはずなのですがね。
オランイェ公フレデリク=ヘンドリク/”Memoire”
はじめに
オランイェ公フレデリク=ヘンドリクによるマーストリヒト攻囲戦(1632)。その露払いとしての前哨戦も含め、「マース川沿いの遠征」として一連の流れとして扱います。
莫大な資金を費やしたスヘルトヘンボスから3年、オランダではその間同様の大規模な戦闘行為はおこなわれていませんが、この遠征に参加しているのはスヘルトヘンボス時とほぼ同じメンバーです。新たに、3年前には若年で参加していなかったナッサウ=ディーツ伯ヘンドリク=カシミールを加え、ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツら次世代の中堅メンバーも名を連ねています。ハーナウ=ミュンツェンベルク伯ハインリヒ=ルートヴィヒは五人兄弟の四男でフレデリク=ヘンドリクの甥。前年に六弟のヤーコプ=ヨハンとともにスウェーデン国王グスタフ=アドルフ二世の軍にも従軍していました。
経緯
「マース川沿いの遠征」は、「南ネーデルランド分割構想」と密接に関わっています。南ネーデルランドは、さらにその南北で――オランダ語話者である北のフランドル貴族とフランス語話者である南のワロン貴族の間で――対立を深めていました。彼らはお互い対立してはいましたが、本国スペインへの不満という点では奇妙に一致しており、それぞれがオランダとフランスに自分たちを売り渡そうと画策します。彼らのうちの北部貴族であるヴァルフュゼ伯(南ネーデルランドの財務担当官)とファン・デン=ベルフ伯ヘンドリク(オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの従兄)が、オランダ側に秘密裏にこの計画を持ち込んだのが事の発端です。
マーストリヒトは、地理的にも共和国の中心から遥か離れた位置にあり、従来リエージュ司教とブラバント公の共同統治のなされてきたカトリックの要地のひとつです。半世紀以上も前の1579年にパルマ公によって開城されてからスペイン側の手にありました。マース川沿岸が今回のターゲットに選ばれた理由は、マース川沿いの街が転向したファン・デン=ベルフ伯の領地であること、および、「フォッサ・エウヘニアーナ」の東半分と西半分をつなぐ中間点がマース川(フェンロー)であることです。
「フォッサ・エウヘニアーナ」は、ライン川・マース川・スヘルデ川の3つの河川を横断する運河でつなぎ、ライン川のスペイン街道からアントウェルペンまでの水運を確保しようという大掛かりな土木計画で、ライン川・マース川をつなぐ東半分はファン・デン=ベルフ伯その人によって既に完成していました。ファン・デン=ベルフ伯にとっては、自ら手がけた「フォッサ・エウヘニアーナ」を完全に封鎖したうえ、自領の街ぐるみ敵方に寝返るという、後戻りできないほどに覚悟の要る申し出でもあります。この協力を確約したことで彼の本気度が計れた、ということも、議会が比較的短期でこの大胆な計画を了承した理由でもあるでしょう。
それ以上に、目まぐるしく変化する国際情勢もオランダを後押ししていました。スヘルトヘンボス攻囲戦の後3年のうちに、南ではマントヴァ継承戦争によりスペインの国力が削がれ、オランダの天敵であるスピノラ将軍も病死していました。北に目を転じると、1631年のスウェーデン軍のドイツ上陸以来、三十年戦争のパワーバランスは完全に逆転し、ちょうどこの分割構想の持ち込まれた4月には「レヒ川の戦い」でバイエルン軍のティリー伯が戦死していました。さらにバイエルンに南下したスウェーデン軍に対し皇帝はヴァレンシュタインを呼び戻して当たらせており、皇帝軍の主力はバイエルンに釘付けとなっていました。
加えて、スウェーデン軍と同盟を結んで戦費を援助し、マントヴァでの勝利を受けレーゲンスブルク会議でも存在感を示したフランスが、いよいよ三十年戦争への介入準備をはじめています。既に戦争は宗教戦争でもオランダ対スペイン単独のものでもなく、外交と国際情勢から時局を読み、自国の利益を模索する局面に移行してきていました。
そのほかの理由として、どうもフレデリク=ヘンドリクはサンタ=クルズ侯のことはナメてかかっていたようです。コルドバ将軍でなくサンタ=クルズ侯が出てくるなら余裕、と思っていました(結局2人揃ってやって来るのですが)。スペインのコルドバ将軍は、三十年戦争初期のフルーリュスやヴィンプフェン、その後マントヴァ継承戦争も戦うなど歴戦の将軍でした。一方のサンタ=クルズ侯は海戦の経験が長く、陸は得意ではないと思われていたのかもしれません。
戦闘
マーストリヒトはマース川の川幅の若干広くなっている部分に位置し、市域はその両岸にまたがっています。 1629年のスヘルトヘンボスの時と同様、軍の合流地点はモーケルヘイデとされました。フレデリク=ヘンドリクは軍を3つに分け、元帥のエルンスト=カシミールを川沿いのルールモントに先行させて自らはフェンローを攻囲し、ウェインベルヘン大佐をフェンローの後背地であるストラーレンに派遣して、まずは手分けしてマーストリヒトの後方を固めることにしました。その後おそらく、自らの本隊と元帥の第二隊とでそれぞれマーストリヒトの両岸を受け持つつもりだったと思われます。
フェンロー攻囲戦 1632/6/1-4
6月1日にフェンロー攻囲をはじめたオランダ軍は、わずか3日で開城交渉にまで至りました。先代のマウリッツ公は35年前の1597年に『ブレダの泥炭船』をこのフェンローでも再現しようとして果たせず、フレデリク=ヘンドリク自身も若年期の1606年に、単独での強行突破の試みに失敗していました。過去に二度も(そして結果論としては将来的にも)頑強な抵抗に遭ったフェンローで、これほど早く合意に至ったのは、何よりファン・デン=ベルフ伯ヘンドリクの水面下での街との調整があったからです。
フェンローはオランダ側の新教の強制にこの上ない嫌悪感を抱いていました。そのため従来カトリック住民たちの抵抗が激しかったという理由も加味され、今回に関しては、スヘルトヘンボスとは逆で、住民の信仰に関しては一切の制限は設けられませんでした。教会が1ヶ所、プロテスタント用に整備されなおされただけです。これも、ファン・デン=ベルフ伯が自らの転向の条件に自身のカトリックの保持を挙げていたことと関係しています。あくまでこの土地の領主としての権利はファン・デン=ベルフ伯のものなので、「アウグスブルクの宗教和議」の原則「Cuius regio, eius religio」に則っているというわけです。
ルールモント攻囲戦 1632/6/2-5
ルールモントに先行したエルンスト=カシミールは、さっそく攻囲の準備をはじめました。まずは位置を決めてキャンプを設営し、仮囲いをつくるとそこから地形を測量して塹壕のプランを練り、その日のうちに掘削に取りかかる。1592年の初陣から40年間、戦場では日々当たり前におこなってきた、彼にとっては何らいつもと変わらないまったくの日常の風景だったでしょう。そんな攻囲初日の午後、塹壕を視察しようと馬から降りた瞬間、街からの一発の流れ弾がエルンスト=カシミールの頭部を貫きました。
その知らせを受けたフレデリク=ヘンドリクは早々にフェンローを後にしてルールモントに駆けつけますが、従兄の死に目には間に合いませんでした。 ルールモントも6/5には開城条件が合意されます。フェンロー同様、新教の教会が設けられたもののカトリックの礼拝に関しては一切従来どおりとし、街の守備隊だけがスペイン軍からオランダ軍に交代することとなりました。
アムステルダムの国立博物館には、このときのエルンスト=カシミールが着用していた揃いの乗馬用コートと帽子が常設展示されています。いずれもグレー(実物は劣化のためベージュっぽいですが)のウールのフェルト製で、外套の裏地は修復の際に薄い緑色だったとわかったとのこと。帽子は弾丸の穴がはっきりとわかります。
マーストリヒト攻囲戦(1632) Beleg van Maastricht 1632/6/9-8/22
マーストリヒトの攻囲がはじまったのは6月9日。ファン・デン=ベルフ伯の内応によって現地の技術者の協力が事前に得られており、環状攻囲網の計画はスムーズに進みました。各キャンプの布陣は以下のとおりです。南北のキャンプにはそれぞれ舟橋が架けられ、川の両岸の物資や人員の移動を容易にしました。
- 西:フレデリク=ヘンドリクの本陣・英仏連隊
- 北:(左岸)ブレーデローデ卿/(右岸)リンブルク=シュティルム騎兵連隊
- 東:ヒルヒェンバッハ伯/(間に湿地帯)/ヨハン=マウリッツ
- 南:(いずれも左岸)ペインセン連隊/ヘンドリク=カシミール
マーストリヒトの北西側は中世以来の城壁になっており、ここの担当はフランス連隊、また、半月堡のある南西側へのアプローチはイングランド連隊が担当しました。 オランダ軍がマーストリヒトを攻囲したとの情報に、南ネーデルランド執政イザベラは、プファルツに展開していたコルドバ将軍とサンタ=クルズ侯の両方を呼び戻します。(さらにここにナッサウ=ジーゲン伯ヤン八世も含まれていたようです)。彼らの到着は7月2日。このほぼ1ヶ月の間にオランダ軍の環状攻囲線は既に完成しており、数に勝るスペイン軍を寄せ付けない強固さを備えていました。
それでも街から、あるいは敵軍キャンプからの襲撃ひとつひとつは激しいもので、兵だけではなく将校にも死傷者が続出しました。サンタ=クルズ侯の襲撃の際、エルンスト=カシミール元帥同様、フレデリク=ヘンドリクの甥にあたるハーナウ=ミュンツェンベルク伯も頭部に流れ弾が当たり戦死しました。また、イングランド軍の塹壕が街から応戦されたときには、ホレス・ヴィアー将軍の本家筋の親族にあたるオックスフォード伯が戦死、モーガン卿も重傷を負っています。
散発的な襲撃がことごとく失敗し、スペイン軍が手をこまねいていたさらに1ヵ月後の8月上旬、援軍として皇帝軍のパッペンハイム伯が到着しました。オランダ側もパッペンハイム伯接近の報を受け、この間、アントウェルペン知事のカルロス・コロマ侯を牽制しに行っていたナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレムを呼び戻し、ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツ(ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯とは異母兄弟)の東キャンプを増強します。
最終的に、北のキャンプの向かいにはスペイン軍本隊、東のキャンプの向かいには皇帝軍が相対する格好になりました。
フレデリク=ヘンドリクとヒルヒェンバッハ伯のキャンプには、20年前のユーリヒ=クレーフェ継承戦争の主役の一人であるプファルツ=ノイブルク公ヴォルフガング=ヴィルヘルムが訪れました。三十年戦争では徹底して中立を保った人物ですが、ちょっと臆病なところがあるのでしょうか。このときも、軍キャンプ内で戦闘に巻き込まれやしないかと不安だったらしく、皇帝軍のパッペンハイムが近くに迫っているので、自分が仲介をするから撤退してはどうかなどと見当違いの申し出を繰り返したりしていました。こうして自分の不安ばかり撒き散らすので、フレデリク=ヘンドリクも半ば呆れて嫌味のひとつも言ってみたようです(冒頭の台詞は意訳に苦労しました…)。結局そそくさと立ち去ってしまったようですが、何をしに来たのかいまいち読み取れませんでした。
パッペンハイム伯の襲撃
8月17日、パッペンハイム伯は環状攻囲線への一斉突撃を敢行します。北部キャンプのスペイン軍と同時に、二方向から全軍でもって力技で要塞を乗り越えようとの計画です。
パッペンハイム伯はまず、東側の攻囲線に程近い教会を砲撃陣地として占拠しようと試みます。斥候の報告でそれを知った東キャンプのヨハン=マウリッツは、今こそ義務を果たせ、と兵たちに呼びかけてこれを阻止しようとします。このときフレデリク=ヘンドリクは痛風の発作で本陣で横になっていましたが、大砲の音と東キャンプからの報告を同時に聞き、馬に飛び乗ると、いま戦闘準備のできている者はすべてヨハン=マウリッツを救援せよ、と命じて自身も現場に急行しました。ヨハン=マウリッツに隣接する東キャンプのヒルヒェンバッハ伯、北キャンプのブレーデローデ卿・リンブルク=シュティルム伯両騎兵連隊が駆けつけ、数時間の応酬ののち、1500名の死者を出してパッペンハイム伯は退却しました。
パッペンハイム伯は、日本語で読める三十年戦争の書籍ではマグデブルクでの非道とリュッツェンでの戦死のイメージが強いですが、三十年戦争の前半期、ティリー伯と並んで最も力のある将軍です。とくに、ドイツ中を縦横無尽に移動するその騎兵の機動力が重宝されました。パッペンハイム伯がマーストリヒトに向かったことは、スウェーデン軍にとってもその南下政策を左右した重要な要素のひとつでした。パッペンハイム伯はこの時の襲撃で麾下の古参の将校たちを何人も失い、撤退せざるを得なくなったところちょうどヴァレンシュタイン将軍から協力を求められ、11月にはリュッツェンの戦いに参加することになります。
同日夕方、今度は北のスペイン軍本陣に動きがあると報告が入ります。パッペンハイム伯の退却を見届けたフレデリク=ヘンドリクは、次はブレーデローデ卿に北の自分のキャンプに移動するよう命じます。北キャンプには、南キャンプから急を知って駆けつけたヘンドリク=カシミールが既に到着しており、その後西のオランダ本陣からも英仏両連隊が合流しました。これらの軍は攻囲線上で戦闘準備を整えて夜通し警戒しましたが、結局、予想されたスペイン軍の突撃はありませんでした。
なお、フレデリク=ヘンドリクにはあまり武闘派のイメージはありませんが、8月17日の襲撃の際には自ら堡塁の最前線に立って兵士たちを鼓舞し、また8月21日の城壁の地雷爆破時にも、発破直前に兵たちを集めて演説をし音頭を取っていたりと、この攻囲戦の成功にはそのリーダーシップもかなり貢献したようです。スウェーデン国王に多少は感化されていたのか、それともエルンスト=カシミールの死によって完全に一頭体制になってしまったことがそうさせたのか、心の動きまではうかがい知ることはできません。
余波
一斉突撃失敗からの数日間、スペイン軍・皇帝軍はオランダの補給の寸断を試みますが、既にキャンプ内に2か月分以上の備蓄をもっていたオランダ軍にとっては、それは放置しても良い動きでした。8月21日に城砦の下に塹壕とトンネルが到達し、夜に地雷によって城壁に突破口が開かれました。それをもって街は降伏を決断し、翌22日には開城条件が取り交わされます。
マーストリヒトにおけるリエージュ司教領との共同統治は維持されました。フェンローやルールモント同様、新教と旧教がまったく同じ権利で共存を認められました。開城交渉を見届けたスペイン軍と皇帝軍は、翌日のうちにそれぞれナミュール方面、ライン川方面へ撤退していきました。
マーストリヒトを奪取して勢いに乗ったオランダ軍が、次はいよいよブリュッセルに攻めてくると考えたイザベラ大公妃は、ここで長きに渡るオランダとの戦いに終止符を打つべく和平交渉を決意し、アーレンベルフ伯をハーグに特使として送りました。しかし、その条件がスペイン側にばかり優位なものでまったく現況とかみ合わなかったこと、そもそも使節のアーレンベルフ伯その人が分割構想の黒幕だったこと(のちにスペイン本国により拘束)、スウェーデン国王の戦死によりヨーロッパのパワーバランスがまた大きく変わったこと、等の要因が重なり、交渉は顧みられることのないまま翌年の大公妃の死によって自然消滅することになります。
ファン・デン=ベルフ伯は翌1633年、完全にスペインと袂を分かち、オランダの保護のもと、政治からも軍事からも身を引いて隠居生活に入りました。 同1633年にオランダ軍は「フォッサ・エウヘニアーナ」の起点であるラインベルクを攻囲し、「フォッサ・エウヘニアーナ」計画は完全に瓦解しました。1635年、フランスと同盟を結んだオランダはさらなる南下を試みるものの、補給路の確保に苦労し結局は北ブラバントの攻略に方針転換します。1637年、オランダはブレダの奪還に成功しましたが、その攻囲中にスペイン軍の枢機卿王子フェルナンドによって、今回の遠征の成果であるフェンローとルールモントその他周辺の街は奪われてしまいました。マーストリヒトのみが1648年のウェストファリア条約後も、飛び地のオランダ領リンブルフとして、オランダ領フランドル(スライス、アクセル、フルストを含む)と同様、連邦議会直轄地扱いとなります。
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。
- ウェッジウッド『ドイツ三十年戦争』、刀水書房、2003年
- Kikkert, “Frederik Hendrik”
- Poelhekke, “Drieluik”
- Wilson, “Thirty Years War”
- Picart, “Memoires”