エルケレンツの襲撃(1607) Aanval op Erkelenz

Blaeu Erkelens

Joan Blaeu (1650) 「エルケレンツ」 In Wikimedia Commons

エルケレンツの襲撃 Erkelenz 1607/2/7
対戦国 flag_nl.gif オランダ flag_es.gif スペイン
勝 敗 ×
参加者 ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリク
ファン・デン=ベルフ伯フレデリク

スペインとの休戦という議題のため、一向に兵の徴募を始めない議会に苛立つナッサウ伯マウリッツは、フランス国王アンリ四世からの軍資金とフリースラントの独自の軍隊を当てにして遠征計画を練ろうと考えていた。ウィレム=ローデウェイクをフリースラントに、エルンスト=カシミールをブラウンシュヴァイクに欠く中、議会相手に孤軍奮闘する兄を知ってか知らずか、弟のフレデリク=ヘンドリクはハーグから遠く離れたユーリヒ公国に居た。

フリースラントの16個中隊を次の遠征の戦力に数えて良いものか、氷の季節が明け実践の場に赴く時期になったら召集をかけて良いものか、折り返し知らせてほしい。

ナッサウ伯マウリッツ/ Prinsterer, “Archives”

主要登場人物のファーストネームが、フレデリク=ヘンドリク、ヘンドリク、フレデリク、と非常にわかりにくくなっています。上掲の表を見ながら読んでいただければと思います。

経緯

Erkelenz cw

J. F. von Welser (1720) “Codex Welser” エルケレンツ In Wikimedia Commons

1605年と1606年の2年間、ライン川沿いの東部戦線でことごとくスピノラ将軍に街を落とされたオランダ軍は、何としても巻き返しを図る必要がありました。が、このスピノラ将軍の快進撃にもかかわらず、南ネーデルランド執政のオーストリア大公アルプレヒトは和平の決意を変えませんでした。

ところで、1607年1月、ナッサウ伯エルンスト=カシミールが、正式にオランダ軍の元帥(この時点でオランダ軍第三番め)の地位に就きました。もちろん実力的にも何ら不思議のない人事ではありますが、時期からいって、超逆玉婚のブラウンシュヴァイク公女との婚約に向けての権威付けの意味合いが強いと思われます。その後すぐ、エルンスト=カシミールはブラウンシュヴァイクへ婚約のため旅立ちました。右腕となる将軍の不在中、総司令のナッサウ伯マウリッツは冬営明けの遠征計画のため兵を集めようとしますが、オーストリア大公の和平案を待つ連邦議会は新兵の徴募に取りかかろうとしません。まずは現存兵力を計算しようと、マウリッツはフリースラント州総督の従兄ウィレム=ローデウェイクに兵の派遣を打診しました。

そんな間、冬季にもかかわらず、なぜか弟のフレデリク=ヘンドリクはオランダ軍の精鋭を率いて、マース川のさらに先、ユーリヒ方面にまで遠征していました。ほかに誰が加わっていたかなど将校などの具体的な名前もわからず、誰(連邦議会か近隣の諸侯か)の依頼による軍事行動かもはっきりしません。リンブルフ地方に散らばって冬営または略奪をしている、前年スピノラ軍に加わっていた小部隊たちを攻撃するためだったようです。しかしその動きは逐一スペインの斥候によって報告され、無為な追いかけっこが続いていた状態でした。

そんな中、フレデリク=ヘンドリクはエルケレンツの街に照準を定めます。ここは、スペイン軍の将軍であるファン・デン=ベルフ家の従兄弟たちの末弟、ヘンドリク・ファン・デン=ベルフ将軍が冬営の本拠地を置いていて、その兵が近隣を略奪し、奪うものがなくなった村には火を放つという無法を働いていました。

戦闘

Erkelenz 1607

Bernardus Mourik (1768) 「エルケレンツの襲撃 (1607)」 In Wikimedia Commons

エルケレンツの街は、この100年後の地図を見てもわかるとおり、二重の水郷で囲まれてはいるものの、近代要塞化のされていない街でした。フレデリク=ヘンドリクがこの街を狙ったのは、砲が不要だったからという理由もあるかもしれません。フレデリク=ヘンドリクは城門の前に地雷を敷設して門を破壊するという、単純な奇襲を指示します。そして爆破された門からそのまま兵をなだれこませ、スペイン騎兵約50人の命を奪ったところで、ファン・デン=ベルフ将軍を捕虜にすることに成功しました。

エルケレンツはユーリヒ公国に囲まれてはいますが、ファン・デン=ベルフ家が州総督として治めるスペイン=ヘルデルラントに属している飛び地です。オランダにとっても遠い飛び地のため、連邦に組み入れることはもともと考えておらず、街には中立の立場と両軍に軍税を支払うことのみを求めました。しかし開城交渉の席で街の住民たちは、最初にスペイン軍を受け入れた際にひどく脅されていたこともあり、街はスペイン軍の支配を由とし敵であるオランダ軍の要求は呑めないとしてその申し出を拒否しました。それを伝え聞いたオランダ兵たちが怒りに任せて街の略奪をはじめ、将校たちが止めに回っても手が付けられないほどの暴動になりました。街には火がかけられ、街全体がほぼ全焼してしまいました。

フレデリク=ヘンドリクはこれを見せしめということにして街をオランダに帰順させることにし、エルケレンツはウェストファリア条約でスペインに返還されるまで、連邦の支配下に入ることになりました。フレデリク=ヘンドリクがこのような強攻策を放置した挙句に利用したのは、1年前のブレーデフォールトで、スペイン側に甘すぎる交渉をしたことを兄のマウリッツにきつく咎められた、という経験にも因っているのかもしれません。

その頃、フランドルにいたファン・デン=ベルフ伯兄弟の次兄フレデリクは、末弟のヘンドリクが従弟の捕虜になったことを伝え聞きました。折しもアールデンブルフの街(3年前のスライス攻囲戦の際、オランダについでに奪取されていた街)の奇襲をオーストリア大公が持ちかけ、弟の復讐も兼ねて呼応したフレデリクは3月6日、3000人の兵を率いてアールデンブルフ近郊に軍を進めます。ところが、この計画は内通者のせいで事前にオランダ側に知られており、結局実行に至る前に立ち消えとなってしまいました。

余波

Vier episodes uit de vaderlandse geschiedenis Illustraties vaderlandse geschiedenis (serietitel), RP-P-OB-50.954

Simon Fokke (1722-1784) 「オランダ史イラストより4場面」 In Wikimedia Commons 「エルケレンツ攻囲戦 (1610)」は右から2番め

結果論としては、この次兄フレデリクの行動は早まったもので、実は末弟のヘンドリクはすぐに釈放されていて、その短い虜囚中の扱いにも非常に満足していました。これからずっと先の25年後、ヘンドリク・ファン・デン=ベルフはスペイン軍を見限ってオランダに転向することになりますが、このときの待遇がその決意に影響を与えた可能性もあります。

一方本国では、マウリッツからの派兵要請を受けたウィレム=ローデウェイクが、いったんは様子見すべきだと判断し、第二次ポエニ戦争の例を出して持久戦略(ファビアン戦略)を提案していました。しかしそんな3月、休戦の具体的条項の第一案がオーストリア大公から連邦議会へ送られてきます。まずは休戦交渉のための8ヶ月の停戦、という文言の書かれた写しを入手したマウリッツは、今年の遠征計画どころかスペインとの戦争自体が終結するのではないかと深刻な危機感をおぼえます。そしてウィレム=ローデウェイクに対し、フリース議会を和平反対派に止めておくこと、ウィレム=ローデウェイク自身はハーグに来てマウリッツと共に議会で反対を表明することを繰り返し依頼しました。

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Unknown (1610) 「エルケレンツ攻囲戦 (1610)」 In Wikimedia Commons

最終的に、マウリッツがこの後、自らスペイン軍相手に出兵するのは14年も先のこととなります。十二年休戦条約は1609年に発効しますが、結局はこの1607年以降の交渉時期にも、議会の主導によるオランダ軍としての遠征計画はおこなわれず、このように小規模かつ散発的な戦いがいくつか見られるのみになります。 なお、エルケレンツは1610年5月、ユーリヒ=クレーフェ継承戦争の煽りで戦場となりますが、わずか1日で撃退に成功しています。

リファレンス

記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。

  • Motley, “United Natherlands”
  • Poelhekke, “Drieluik”
  • Prinsterer, “Archives”