対戦国 |
オランダ |
スペイン |
---|---|---|
勝 敗 | ○ | × |
参加者 | ナッサウ伯マウリッツ フランシス・ヴィアー ホーエンローエ伯フィリップス シャルル・ド・エローギール マルセリス・バックス ロバート・シドニー |
ヴァラウー伯フィリベール・ド・アイ |
1596年から1597年にかけての冬、厳冬期にもかかわらずスペイン軍がトゥルンハウト近郊に展開した、との報にオランダ軍は即刻それを迎え撃つ決定をした。ヒースの原野を彷徨うスペイン兵を、オランダ騎兵の機動力が翻弄する。1597年の一連の遠征は、その成功を飾るにふさわしい、華々しい前哨戦で幕を開けた。
総司令官殿自らが夜警する気満々じゃあ、こちらもおちおち寝ておられんよな。
ヴィアー卿フランシス/ Firth, “Tracts”
経緯
1596年は、南ネーデルランド執政府およびスペイン軍にとって地味なダメージの蓄積した年でした。この年南ネーデルランド新執政となったアルプレヒト大公は、さっそくその最初の戦いでオランダ軍からフルストの街を奪還しますが、オランダ軍の10倍にもなる5000名余りの犠牲者を出していました。さらに、本国の三度めの国家破産により、大幅に軍事費を減らされてしまいます。加えて冬営中のスペイン軍は半年も給料を払われておらず、領内を略奪して回っている有様でした。
通常この時代のヨーロッパでは、冬季には「winter quarters」と呼ばれる冬営に入り、軍事行動を行いません。しかしアルプレヒトはヴァラウー伯の5000の歩兵に、オランダ側への攻撃を許可します。このまま自軍によって自領を荒らされるままにするよりは、オランダにわずかなりとダメージを与える可能性のほうが、いくらもマシだと思ったからでしょう。また、あわよくば、奇襲によって南部の要害ブレダを奪還できれば尚良しという思惑もあったようです。
このような状況を、スペイン軍を迎え撃つ絶好の好機だ、とオランダ軍総司令官のナッサウ伯マウリッツに伝えたのは、ベテラン騎兵のマルセリス・バックスです。それに即賛同したフランシス・ヴィアー将軍の言を借りれば、「わざわざ殴られにきやがった」というわけです。マウリッツは散々考えたうえ、連邦議会ではなく、国務会議に「ごく私的な議題」として諮りました。「司令官自らが決して無謀な行いをしないなら」「関係者以外完全に秘密裏に進めるなら」という条件付きでこれは許可されます。オランダ軍はマース川河口の街ヘールトライデンベルフに密かに集結することになり、スペイン軍とほぼ同数の歩兵とさらに800の騎兵、言いだしっぺのバックス兄弟やヴィアー兄弟を筆頭に、ゾルムス伯、ホーエンローエ伯などの名だたる将軍たちを揃え、1月23日、南に進軍を始めました。
この23日の夜のキャンプは非常に寒く(そもそも冬に野営をすることは稀なので)、総司令官のマウリッツ自身が、兵たちの焚き火用のワラ束を持ってキャンプ内を走り回っている状況でした。動いていないと寒くて仕方がなかったのかもしれません。実際、その寒さでとても眠れる状態ではなく、将校と兵士が一緒になって一晩中焚き火を囲む姿があちこちで見られたようです。
戦闘
翌1月24日、ヴァラウー伯はオランダ軍の進軍を知ると、無理に戦うことを避け、作戦を中断し撤退することを決断します。スペイン軍は南西のヘレンタルスの街へ向けて退却を始めました。この行軍路には「ティーレンヘイデ」と呼ばれるヒースの生い茂る湿地帯が広がっていました。ヴァラウー伯はこのヒースや散在する森が、自分たちの行軍をうまく隠してくれると考えました。しかしティーレンヘイデはその足場の悪さから、まともに通れる道は、人ひとりが通るほどの幅しかありませんでした。
マウリッツは、逃げるスペイン軍に800名の騎兵全軍で追いつき突撃を加えようと考えます。ホーエンローエ伯とヴィアー将軍がその襲撃の指揮に名乗りをあげました。当初ホーエンローエ伯はヴィアーに共同作戦をもちかけましたが、ヴィアーが固辞したこともあり、この2人がそれぞれ別々に隊を組んでスペイン軍の両側から挟み撃ちを仕掛けて混乱を誘い、そこにマウリッツの主力が追いつくという作戦が立てられました。
しかし相手は歩兵だけとはいえ、その2割以下の人数の騎兵で襲撃するにはもちろん多大な危険が伴います。オランダ騎兵たちは用心のため、通常は歩兵の持つ武器である小型のカービン銃を携行しました。これが「ピストル騎兵」(ロイテル)の始まりともいわれます。また、マウリッツは自らの護衛隊のマスケット銃士隊200名に、「現場でのヴィアー将軍の命令は総指令官の命令と思え」と命じてヴィアーに予備兵として預けます。
ヒースの茂みは、オランダ騎兵のこの企てをも隠す助けになりました。しかもスペイン歩兵は6mもの長さの長槍を持っていたので、その位置や速度の予測がつきました。逆にスペイン兵たちは、見通しのまったくつかない中、何かに追われている不安感から疑心暗鬼になりはじめました。ホーエンローエ伯とヴィアーはそれぞれ、つかず離れずの距離を保ちながら、4時間ほど追撃を続けます。そして一瞬開けた場所に出たとき、ホーエンローエは前方と右側面から、ヴィアーは後方と左側面から、同時にスペイン軍に突撃を加えました。四方を囲まれた状態で突撃を受けたスペイン兵は、戦闘準備もできておらず、長槍でうまく立ち回るスペースもなく、一気にパニックに陥ります。完全に一方的な展開となり、マウリッツの歩兵本隊を待つまでもなく、わずか30分ほどであっけなく戦いは終了しました。
余波
スペイン軍はヴァラウー伯を含む2000-3000人が戦死、捕虜も数百人にのぼりましたが、オランダ側の犠牲者は100人に満たず、戦闘行為というよりほとんど虐殺に近いものでした。オランダ軍は数多くのスペイン軍旗を持ち帰り、これらは戦勝記念として長らくハーグのビネンホフに飾られました。(上掲の絵画は半世紀以上も後のものですが、ここにもその様子が描かれています)。
オランダ軍はこの戦いの後トゥルンハウト城を占領し、トゥルンハウトとヘールトライデンベルフに守備兵を冬営させハーグへ帰還します。1597年は、夏から秋にかけての「マウリッツの1597年遠征」によって最も軍事的成果の上がる年となりますが、この年明けすぐのトゥルンハウトの戦いによって、軍も議会も自信を得たという要素も大きいでしょう。
とはいえ、戦術的にはお粗末な戦いだったことも事実です。攻囲戦で用いられるような緻密な計算もなく、泥沼地でカウンターマーチも使えず、司令官が指揮を振るう局面もありません。それどころか、ヒースの茂みはオランダ側の命令系統をも混乱させ、マウリッツは一時、わずか10人に満たない近衛兵とともに取り残されてしまうという一場面までありました。さらにオペレーションの内容も2年前の「リッペ川の戦い」に酷似しており、その時の失敗を顧みれば、危険性の高い賭けであったとすらいえます。
なおこの戦いで主役の一方を担ったフランシス・ヴィアーは、この夏、本国イングランドの計画する「アゾレス諸島遠征」に投入されたため、「マウリッツの1597年遠征」への参加は9月末以降となります。
リファレンス
- Van Der Hoven (ed.), Exercise of Arms, 1997
- Motley, “United Natherlands”
- Markham, “Veres”
- Firth, “Tracts”
- Kikkert, “Maurits”
- Prinsterer, “Archives”
G.A.ヘンティの小説から、該当箇所の機械翻訳(整形済)をnote版に載せています。