対戦国 | オランダ | スペイン |
---|---|---|
勝 敗 | △ | △ |
参加者 | ナッサウ=ジーゲン伯アドルフ クローネンブルフ伍長 |
スタンレー卿ローランド?(またはウィリアム) |
「彼を知るすべての人に愛された」とまで言われた好漢アドルフ。一対多勢、四方八方から滅多刺しにされながらも、アドルフは真の戦士に相応しくないと考えた謗言は一切口に登らせず、その高潔さが本物だったことを示した。敵味方の区別なく悼まれたその死は、ナッサウ=ジーゲンの10人の兄弟たちの最初の犠牲でもあり、長い目で見れば、後にナッサウ=ジーゲン家を襲う内紛の最初の一歩となったかもしれない。
ああ、神よ! そしてどうか君、僕の命が尽きるまで一緒に祈っていてくれ給え。
ナッサウ=ジーゲン伯アドルフ/A.J. van der Aa, “BWN”
はじめに
この「ナッサウ伯アドルフ」は、ドイツ王のアドルフ(1250-1298)でも、ウィレム沈黙公の弟のアドルフ(1540-1568)でもなく、ヤン七世の三男にあたるアドルフ(1586-1608)です。ウィレム沈黙公にとっては弟の孫にあたります。ドイツ王アドルフはゲルハイムの戦いで戦死、沈黙公の弟のアドルフはヘイリヘルレーの戦いで戦死し、いずれも英雄的な死を遂げたとして有名ですが、実は乱戦の中どのようにして亡くなったのかよくわかっていません。逆にこの記事の主役であるアドルフは、歴史的に決して有名ではありませんが、その戦いと死についてはかなり詳細に書き残されています。おそらくその現場に居た者への聞き書きによって、文書に記録されたものでしょう。
ナッサウ=ジーゲン伯アドルフは、単独で350名ほどの隊を率いたルクセンブルク遠征の帰途、ドイツのクサンテン付近で戦闘に巻き込まれます。この戦闘が正確にどう呼ばれているか確定できなかったため、その内容から便宜的に「クサンテンの襲撃」としました。
経緯
1607年初頭から、オランダ連邦議会はスペイン、とくにブリュッセルの執政府のアルプレヒト大公と休戦についての協議を始めました。しかも、協議中も「停戦」の扱いとなり、国をあげて対スペインの徴兵も派兵もできなくなりました。実戦の場を奪われてしまったとりわけ若い将校たちは、戦う場を求めて、中隊など比較的小さな単位での独自の軍事行動を模索していました。ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクが1607年におこなった「エルケレンツの襲撃」もその一貫ですし、同年にアドルフ自身も、敵であるスペイン軍に仕官している従兄ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリクに「一緒にハンガリー遠征に行かないか」と声をかけているほどです。
おそらくそのような軍事行動のひとつとして、アドルフは1608年秋、ルクセンブルク方面に遠征します。戦利品とスペイン兵捕虜を得ての帰途、ライン側沿いのメールスの街(ナッサウ伯領のひとつ)に一時的に捕虜を預けたところ、代官の手違いでその捕虜たちが解放されてしまいました。捕虜たちは付近のスペイン軍駐屯地ラインベルクに向かうと、オランダ兵の人数(実際の半分程度に見積もっていました)および、彼らが人馬ともに疲労困憊しているため、近くの村々に分かれて野営するのではないかという見込みとを伝えます。ラインベルクでは同胞を捕虜にとったオランダへの意趣返しと同時に、あわよくば彼らの持つ戦利品を横取りできるだろうと踏んで、スペイン守備隊のイングランド人連隊長スタンレー(かつてスペイン軍に内通したスタンレー卿ウィリアムの息子)に750名の兵を与え、オランダ騎兵たちを追うように命じました。
戦闘
夜中の11時にラインベルクを出発したスタンレー隊は、深夜3時頃に現場のひとつに到着しました。見張りも置かれていなかったため、雄叫びと銃の発砲とドラムの音が一気に鳴り響くと同時にオランダ兵たちは夜襲を知ります。何人もがその場で捕えられ、それを免れた者はとにかく一目散にその場を逃げ出すしかありませんでした。
アドルフは別の村に野営していましたが、そこにまで聞こえて来た騒ぎで目を覚まし襲撃を知ります。逃げてきた仲間からスペイン兵が300人以上は居ると聞いたアドルフは、とにかく散り散りになった兵を集めてから、部下たちを救いに向かいました。ところが襲撃された村は生垣に囲まれていて、出入口はひとつしかなく、正面から堂々と行ったのでは捕まった仲間の解放は難しいと思われました。
そこで村の周囲を探ってみると、馬一頭通れるほどの抜け道を発見しました。アドルフはそこに飛び込み、30人ほどの騎兵がその後に続きます。村に入るや否や、アドルフは「続け!」と叫んでピストルを撃ちながらスペイン兵に突進していきました。弾が尽きると剣と予備の銃を両手に持って奮戦しましたが、双方の銃の撃ち合いで辺りには硝煙が立ち込め、それが晴れるとアドルフはひとりスペイン兵の真ん中に囲まれてしまっていました。全方位から槍やレイピアがアドルフを襲い、武器も兜も失い丸腰となったアドルフは何とか馬にしがみついているのが精一杯でした。さらにその頭部を弾丸がかすめ、左肩を剣で突かれてしまいます。ここに至ってようやくオランダ兵たちが方々から駆けつけ、その凄まじい勢いに動揺したスペイン兵たちは退却を始めます。
しかしその時、アドルフは乗っていた馬がよろめいた反動で落馬し、真下にあった水溜りに頭から浸かってしまっていました。一部始終を見ていたワルラーヘンという名の兵(先の襲撃でスペインに捕まっていた一人)が、急いで副隊長のクローネンブルフを探しにいきます。同時にエルケンという名の伍長がアドルフを助け起こし、倒れたアドルフを背負いました。しかしほんの10歩程度歩くだけであまりにアドルフが傷の痛みにうめくため、しばらく木陰で横たえて安静にした後、やっとのことで付近の農家に運んで手当を試みます。伍長は火を起こしてアドルフの体を温めようとしますが、致命傷を受けた体が11月の水で冷やされたことが死期を早め、アドルフの体温はどんどん失われていきました。最期に何度も神の名を呟きながら、アドルフは息絶えます。わずか22歳でした。
ここでスペイン兵たちは初めて、今ここで命を落としたのがナッサウ伯アドルフだったことを知りました。彼らは戦っていた手を止めると、オランダ兵たち以上の早さでアドルフのもとに駆けつけ、「スペイン人捕虜たちの命を救ってくれたにも関わらず、彼らが言う悪党の群れだという進言を信じて、喜々としてこのような卑劣な報復行為をしたのが本当に恥ずかしい」と激しく後悔の念を表しました。さらに、数に勝る自分たちのほうが劣勢だったこと、貴人を捕虜にせず殺してしまったことをも深く恥じました。翌朝、双方合わせて600名におよぶ死者の山の中に、数十人のスペイン兵の重軽傷者が発見されましたが、通常であれば延命措置がとられる者もそのまま放置されたとのことです。
余波
アドルフの遺体はオランダのネイメーヘンに運ばれ、11月23日、聖ステーフェンス教会へ葬られました。アドルフとネイメーヘンの関係はよくわかりませんが、もともとこの遠征へ旅立った地もネイメーヘンだったので、知事の職に就いていた可能性もあります。 アドルフの死から5ヶ月後、オランダとスペインの間の十二年休戦条約が発効しました。
聖ステーフェンス教会の訪問記です。
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