- 種類: 戦勝画(1625年のブレダ攻囲戦勝利の10周年記念として)
- 製作年: 1634-1635 油彩・画布
- 作者: ディエゴ・ベラスケス
- 依頼者: オリバーレス公伯爵
- 所蔵場所(当初): スペイン王室離宮/ブレン・レティーロ宮内『諸王国の間』
- 所蔵場所(現在): マドリード プラド美術館
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オランダ近世史―八十年戦争とナッサウ伯の軍制改革
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八十年戦争期オランダ共和国の軍制改革は、一般的に「ナッサウ伯マウリッツの軍制改革」として知られ、近代軍隊の先駆けとなったさまざまな改革です。正確には、マウリッツ、ウィレム=ローデウェイク、ヤン七世(ミデルステ)の3人のナッサウ伯が中心となって行われました。
この記事では基本的な骨子のみを挙げ(それでも多少長いです)、詳細については他記事を設けています。記事中の各所リンクを参照ください。
ナッサウ=ジーゲン伯ヤン七世の監修のもと、画家ヤーコプ・デ・ヘインが版画を制作し、1607年に刊行された “Wapenhandelinghe” 『武器教練』。ここでは「ナッサウ伯の軍制改革」の集大成ともいうべき、歩兵の軍事訓練マニュアルをご紹介します。この時代の軍制改革に興味があるなら、必携の書。というか絵本。
中身は当時の司令官たちがこぞって入手し、実際に兵たちにこれを用いて訓練したそのものの内容です。火縄銃・マスケット銃・パイク(長槍)の3種類の武器の使い方が、順を追って載っています。
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日本語表記「オラニエ」で定着しつつある昨今ですが、このサイトでは「オランイェ」で通しています。ウィレム一世(沈黙公)を起点として兄弟・子供・孫・妻などというふうに分けてみました。が、リストだけでも相当人数になりました。「オランイェ=ナッサウ家家系図」を併用しないとわかりにくいかもしれません。
記述に関しては、オランダ語の2冊の歴史人物事典をベースとしたものが多いです。が、もちろん必ずしもこの限りではなく、たくさんの本の中からピックアップしてまとめています。
基本的にはオランダ語表記にしましたが、オランダと縁のないまま、活動の場がほとんどドイツだった人物に関しては、ドイツ語表記をしています。
2017年発行の『物語 オランダの歴史』では、オランイェ=ナッサウ家に関してはオランダ語、ナッサウ諸伯についてはドイツ語で表記されています。
このサイト内では以下のようにしました。
そのため、兄弟姉妹でも表記が異なる場合があります。 また、ヤン(ヨハン)六世・七世・八世の三代については、オランダで独自の呼び名(de Oude/ de Middelste/ de Jonge)があったり、いずれも区分けが難しいことから、両言語併記としました。
比較的聖職者や知識人・文化人が多いです。同時代のイングランド人と違い、詩人が軍人ではないことも特徴で、どちらかというと文化人は政治家や外交官を兼ねているようです。苦手ながらも海軍も付け足してみました。
当初「ハプスブルク陣営」という意味でリストアップしていましたが、記事数増加に伴い、本来の意味で「ハプスブルク家」出身者に限定して分割しました。スペイン王室、神聖ローマ皇帝、オーストリア大公のほか、女性も含んでいます。
「スペイン」のみではなく、スペイン領南ネーデルランドも含みます。というか、そちらがほとんどです。当初「ハプスブルク陣営」としていましたが、記事の増加に伴い分割しました。スペイン王室や、ハプスブルク家出身の執政は「ハプスブルク家の人物」として別カテゴリです。ほとんどが軍人ばかりのリストになりました。ナッサウ家ばかりの北部に比べ、フランドル方面軍の将軍たちは個性的な人物が多く、管理人は個人的には大好きです。
八十年戦争に関わったドイツ軍人をメインにしました。選帝侯と皇帝軍元帥もおまけに加えています。ナッサウ家自体が帝国諸侯のひとつなので、姻戚としての関係もあります。
この場合の「ドイツ」はおもに「ドイツ語を話す地域」のこと。時代柄、ほとんどが神聖ローマ帝国内になりました。三十年戦争の人物もこちら。
対スペインに限り利害関係の一致の多いイングランドは、ウィレム沈黙公の死後も(というより死後のほうが?)、少なくとも八十年戦争期間中は、陸海両方で心強い隣人であり続けました。オランダで軍事技術を学び、イングランド内戦で活かした軍人も多いです。ウェストファリア条約後は即行敵に回り英蘭戦争がはじまりますが、このサイト外の話です。
イングランド同様、八十年戦争の期間を通じて基本的に協力関係にありました。カトリック国であったため当初はユグノー戦争との連携を目指していましたが、アンリ四世が改宗した後も経済的・軍事的援助は続けられ、最後の10年はパリ条約(1635年)によって公式に共闘関係となります。