「三十年戦争 400年企画」に掲出した記事です。当サイト用に成型して転載しています。
プラド美術館所蔵のスペイン戦勝画についてのまとめ。これらの戦勝画は、もともとはブエン・レティーロ宮殿の「諸王国の間」を飾るためにスペイン王室が発注した12枚のスペイン戦勝画で、残念ながら1点が消失しているものの、現在オリジナル12点のうち11点すべてがプラド美術館所蔵となっています。ブエン・レティーロ宮はスペイン国王フェリペ四世の夏の離宮として1629年に建設が始まりましたが、当時は三十年戦争の影響もあって古典的な名画の市場が縮小しており、王室はお抱えの画家たちのプロモーションも兼ねて新作を描かせたようです。2018年の「プラド美術館展」では、当記事8として挙げた「ジェノヴァ救援」が来日。
下記の図は、パーカーの「三十年戦争」139ページの図にわかりやすく色を付けて作成されたもの。スペインは三十年戦争の中でも脇役の印象がありますが、実は皇帝軍と並び全期間において、直接・間接に何らかの関りを持ち続けています。
中でもこの絵画シリーズの題材となったのは、フェリペ四世即位(1621)以降のスペイン軍の勝利です。絵画が描かれたのは1634年から1635年。ネルトリンゲンの戦いに代表される旧教側の優勢が、1635年のプラハ条約で頂点に達した時期と重なっています(もっとも、たまたま後世のわれわれから見ればすべての戦勝画の題材が「三十年戦争」の枠内に入っているだけで、さらにこの直後にフランスの参戦があり、戦局はさらに混沌を増すことになるのですが)。興味深いのは、同期間の勝利の中でもとくに決定的且つ王弟フェルナンド枢機卿が指揮したネルトリンゲンの戦いは取り上げず、オリバーレス公伯爵のプランでもあるライン地域(スペイン街道)の回復、とくに「フェリア公によるライン地域の三都市の奪還」シリーズを押し出している点でしょう。皇帝軍の介在しない、スペイン単独の勝利に焦点を当てたためかもしれません。既に亡き英雄を賛美するという意図もあるためか、絵画の中で主役を張る司令官たちも、フェリア公を含め、死亡や引退で一線を引いている場合が多いです。
絵画各論については、ヨーロッパ大陸内の8つの戦いに絞り、消失した1点を含め、ヨーロッパ外を題材にしたものはデータを挙げるのみに留めました。
なお、本記事中の画像は、Wikimedia Commonsのパブリックドメイン画像の埋め込みソースを利用しています。
1. The expulsion of the Dutchmen from the island of San Martin by the Marquis of Cadreita
エウヘニオ・カシェス「カデレイタ侯によるサン・マルタン島からのオランダ人の駆逐」(lost)
1633年6月の海戦。現在消失。
2. The Storming of Rheinfelden (1634)
ヴィンチェンツォ・カルドゥッチ「ラインフェルデン急襲」
フェリア公によるラインフェルデン攻囲戦 (1633)
スペイン軍のミラノ総督フェリア公がラインフェルデンを急襲して奪還した攻囲戦。スウェーデン国王の戦死を好機と捉えたオリバーレス公伯爵は、スペイン領ミラノからライン地域にかけての「スペイン街道」の安全性の確保を命じました。フェリア公率いるスペイン・アルザス軍は20,000。対して、スウェーデン守備兵はわずか350名。ほぼ皆殺しでの奪取となりました。
中央の平地には歩兵の「テルシオ」、左手前の高台には砲が据えられています。ラインフェルデンの城壁は中世そのままのカーテンウォールなので、砲にとっては格好の的となります。中央やや右では城壁が大きく割れていて、そこから兵士がなだれ込み、城壁の上では既に勝利のスペイン軍旗を掲げている兵も見えます。完全に一方的な展開であり、プラドのタイトルどおり、攻囲戦 siege というよりは襲撃 storm といったほうがより実勢に即しています。
なお、ここから5年後の第二次ラインフェルデン攻囲戦でもこの昔ながらの城壁は健在で、映画『最後の谷』でも城壁の内外での攻防が描かれています。
3. The Liberation of Brisach (1634-1635)
ホセ・レオナルド「ブライザッハ解放」
フェリア公によるブライザッハ解放 (1633)
こちらもフェリア公による遠征の一環。内容もほとんど変わらず、三十年戦争全体からいうとよくあるほんの小さな小競り合いの域を出ないものです。正直このようなプロパガンダがなければ、あまり顧みられることもない戦いであるともいえます。それを表すように、ここでは戦いの場面ではなく、既に開城交渉が済み、スペイン軍が整然と入城をおこなっている場面を描いています。
敢えて画家名を書かずにこのフェリア公三連作を並べてみると、すべて同じ画家が描いたと思えるような仕上がりにみえます。が、三連作中、このブライザッハだけがレオナルドの筆によるものです。しかも作中では、「諸王国の間」のために描かれた他の絵画との共通性も見られます。例えば馬上で見返るポーズをとるフェリア公は、ベラスケスの描くオリバーレス公伯爵の騎馬像と、右側の騎兵の持つ槍は同じくベラスケスの「ブレダの開城」の槍との類似性が言及されています。オリバーレス公伯爵の騎馬像はこの作品よりも1年後の完成となることもあり、「諸王国の間」の作品を依頼された画家たちが、それぞれ事前あるいは製作中に互いの作品についての情報交換を行い、テーマに一貫性を持たせた可能性もあります。
4. The Relief of Constance (1634)
ヴィンチェンツォ・カルドゥッチ「コンスタンツ救援」
フェリア公によるコンスタンツ救援 (1633)
「フェリア公によるライン地域の三都市の奪還」のひとつですが、時系列としてはコンスタンツが最初の救援です。スペイン軍はグスタフ・ホルン将軍が攻囲するコンスタンツからスウェーデン軍を駆逐しました。中央にあるコンスタンツの街は湖に囲まれていて、橋向こうにはスウェーデン軍が見えています。主戦場は橋の手前のようです。スペイン騎兵は槍を持っていて、この時代になってもまだ槍騎兵が存在したことがわかります。
ところでフェリア公はこの一連の遠征直後の1633年12月、ミュンヘンのバイエルン選帝侯の居城で突如病に陥り、翌1月に死亡しています。オリバーレス公伯爵の命による毒殺という噂がまことしやかに囁かれたようですが、実際の死因は当時兵の間でも流行していたチフスとのことです。
5. The Recapture of San Juan in Puerto Rico (1634-1635)
エウヘニオ・カシェス「プエルト・リコのサン・ファン再占領」
フアン・デ・アロによるサン・ファン防衛 (1625)
スペイン総督のフアン・デ・アロが、約1ヶ月半におよぶオランダ船の攻囲を阻止した戦い。フアン・デ・アロも絵画が描かれた時期には既に死亡しています。
6. The Recovery of Saint Kitts Island (1634)
フェリックス・カステロ「セントキッツ島回復」
ファブリケ・デ・トレドによる、セントキッツ島のオイングランドからの再占領 (1629)
デ・トレドは一連の勝利の功績で1634年1月にに初代ビジャヌエバ・デ・バルドゥエサ侯に叙されましたが、同年12月には死去。「セントキッツ」の完成は見ることができたかもしれませんが、「バイーア」の完成には間に合わなかったかもしれません。
7. The Recapture of Bahia de Todos los Santos (1634-1635)
フアン・バティスタ・マイノ「バイーア再占領」
ファブリケ・デ・トレドによる、ブラジルの港バイーアのオランダからの再占領 (1625)
右奥でフェリペ四世とオリバーレス公伯爵の絵画の前に立っているのは、初代ビジャヌエバ・デ・バルドゥエサ侯ではなく、同名の息子第二代ビジャヌエバ・デ・バルドゥエサ侯。
8. The Relief of Genoa by the II Marquis of Santa Cruz (1634-1635)
アントニオ・デ・ペレーダ「第二代サンタ・クルズ侯によるジェノヴァ救援」
2018/3/24(土)にプラド美術館展鑑賞してきました。「ジェノヴァ救援」について、末尾に追記しています。
ジェノヴァ解放 (1625)
フランス・サヴォイア連合軍が包囲するジェノヴァを、スペイン艦隊を率いた第二代サンタ・クルズ侯アルバロ・デ・バザンが解放。フランス軍はレディギエール大元帥、サヴォイア軍はサヴォイア公カルロ一世エマヌエーレ本人が指揮を執っていました。多分に漏れず、フランス・サヴォイアによる攻囲戦は「スペイン街道」の分断を図ったもので、スペインとしてはその阻止のための派兵となります。
第二代サンタ・クルズ侯の父は「スペイン海軍の父」と呼ばれる同名のアルバロ・デ・バザン。第二代である息子も海軍提督で、のちには陸軍の将軍も兼ねました。この絵画の中でのサンタ・クルズ侯は、絵画制作当時の60代の風貌をしています。また、このジェノヴァの風景は、実際のジェノヴァを見て描いたものではなく、いわゆる「イタリア風」の風景画です。バロック時代の絵画は、風景に関しては「目に見えているものを描く」のではなく、かといって文物に関しては「その当時の風俗を反映する」(例えば聖書の人物が16世紀当時の鎧を着ている等)という相反する性質があり、その点を比較して見るのも面白いです。
ところでこのジェノヴァには、1633年のライン地域遠征のフェリア公も参戦しています。が、この絵画でサンタ・クルズ侯の後ろにいる4人の貴族たちの中にはどうやら含まれていないようです。
9. The Victory at Fleurus (1634)
ヴィンチェンツォ・カルドゥッチ「フルーリュスの勝利」
フルーリュスの戦い (1622)
フリードリヒ五世との契約を打ち切られたブラウンシュヴァイク公クリスティアンは、スピノラ侯に攻囲されるオランダのベルヘン=オプ=ゾームに向かっていました。彼ら傭兵軍の到着を警戒したスピノラ侯は既にスペイン本国に援軍を要請しており、それに呼応したコルドバ将軍が、ちょうど進軍中のクリスティアンを捉えた戦いです。クリスティアンは5度の騎兵突撃で応戦したものの、コルドバ将軍の追撃を受けて自軍が壊滅、自身も左手を失う大怪我をし敗走を余儀なくされました。この「フルーリュスの勝利」には、シリーズの中でも、最も野戦らしい両軍の激突が描かれています。
コルドバ将軍は、「テルシオ」考案者であるコルドバ将軍の同名の子孫。この記事内でも「同名の」と何度か書いているとおり、スペイン貴族にはまったく同名の人物が多いです。コルドバ将軍も祖先ほど有名ではありませんが、三十年戦争前半の旧教側の将軍の中でもトップクラスの実力者のひとりです。
プラド美術館におけるこの絵画の英語名称は表題のとおり「victory」。確かにどう見てもスペイン側優位の結果ではありますが、ブラウンシュヴァイク公クリスティアンのウィキペディア記事(日本語版のもとになった英語版も含め)を見ると、「スペイン軍の戦線を破り…(中略)…勝利したとはいえ」と、なんだか勝ったことになっています。戦線を破る、というより、命からがら逃げた、というほうが近い気もしますが…。
10. The Surrender of Julich (1634-1635)
ホセ・レオナルド「ユーリヒの開城」
ユーリヒ攻囲戦 (1622)
オランダ・スペイン間の十二年休戦条約が失効し、プファルツ遠征の途上にあったスピノラ侯は即座にフランドル戦線に復帰しました。先に配下のファン・デン・ベルフ伯に攻囲をはじめさせたユーリヒに後から合流、5か月後に開城させています。
ユーリヒ=クレーフェ継承戦争まで話は遡りますが、かんたんに説明すると、継承戦争の結果、ユーリヒ公国はプファルツ・ノイブルク公、クレーフェ公国はブランデンブルク選帝侯の領有となりました。ただし、各領地内の都市それぞれひとつずつが、飛び地として存在していました。そのひとつがユーリヒです。つまり、ユーリヒの「公国」はプファルツ・ノイブルク公の領地ですが、その中心都市であるユーリヒの「街」はブランデンブルク選帝侯に属しています。ブランデンブルク選帝侯はライン地域の防衛はオランダに一任しており(遠いので)、この時もユーリヒにはオランダの守備隊が入っていました。
この絵画は「ブレダの開城」と対で語られることが多いです。同じくスピノラ侯による開城の風景であり、それぞれライン川沿いの「スペイン街道」、南北ネーデルランド国境沿いの要衝の奪還でもあります。「ブレダの開城」が含むメッセージが強烈なため、どうしても「ユーリヒの開城」の見劣り感は否めません。しかし、こちらが「通常」の開城のシーンであり鍵の受け渡しの場面です。
いずれの攻囲戦でも、スピノラ侯の副官として最も功績をあげたのは、先に挙げたファン・デン・ベルフ伯です。が、ファン・デン・ベルフ伯はオランダの総司令官オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの従兄弟でもあり、1632年に南ネーデルランドを離反してオランダに下っています。そのためか、両絵画に彼の姿は描かれていません。ユーリヒではその代わりにレガネス侯(いちばん左の馬上の人物)がひときわ目立っています。彼はスピノラ侯の娘婿でもありますが、同時にオリバーレス公伯爵の親族でもあります。「ユーリヒ」にそのようなあからさまな意図が見え隠れするのも、「ブレダの開城」の側に軍配が上がる理由かもしれません。
11. The Surrender of Breda (1635)
ディエゴ・ベラスケス「ブレダの開城」
ブレダ攻囲戦 (1624-1625)
「槍 Las lanzas」の副題でも知られる、ロス=バルバセス侯スピノラを描いた、この連作中文句なしにトップを張る名作。ベラスケスの代表作でもあります。詳細は個別記事「ブレダの開城」(槍)へ譲ります。
12. The Defence of Cadiz against the English (1634-1635)
フランシスコ・デ・スルバラン「イングランド人からのカディス防衛」
カディス遠征 (1625)
ドレイクの時代からイングランドは頻繁にスペインのカディスにちょっかいをかけていますが、理由はだいたい同じで、貨物船の横取りと海軍戦力の弱体化を図ったものです。この「カディス遠征」も、スペイン船団の財宝を奪ってそのままプファルツ奪還の資金に充当し、ついでに「スペイン街道」の流通にも打撃を与えようという(ある意味虫の良い)計画でした。
結果からいえば、スペイン側が効果的に撃退に成功したというよりも、イングランド側の自滅の感が強いです。イングランドの指揮官たちを見ると、エドワード・セシルを筆頭に全員陸軍出身で、エセックス伯もホラント提督も、陸軍経験すら少ない若い軍人です。
カディス総督フェルナンド・ヒロン・デ・サルチェードは、左の椅子に座って指揮を執る人物。「ジェノヴァ」と構図が似ていますが、主人公はこのデ・サルチェードのほうです。その後ろのサンティアゴ騎士がメディナ・シドニア公、中央でいちばん目立っている2名は、総督の命令を受けている副官たちとのことです。
「ジェノヴァ救援」についての追記
2018/3/24(土)にプラド美術展にて現物を鑑賞したうえでの追記です。
今回来日した「ブエン・レティーロ宮/諸王国の間」関連の絵画は、冒頭の「バルタサール・カルロス騎馬像」をメインとして、戦勝画からは「ジェノヴァ救援」のみ。その他ヘラクレスシリーズが2点。本展示会のキャッチである騎馬像よりも、ジェノヴァ救援のほうが中央の目立つ位置にあり、両脇をヘラクレスで囲んでいるかたちでした。(こんなに目立っていたのにポストカードが無かったのは残念…)
まずは実物を観て真っ先に思ったのが、PC画像で見た以上に「ブレダの開城」との類似性が高いということ。中央のサンタ・クルズ侯とジェノヴァ総督のポーズもさることながら、左側の矛槍が非常に印象的に見えます。やはり「諸王国の間」での配置を意識して、意図的に類似性を持たせたものでしょう。
カラトラバ十字(左)とサンティアゴ十字(右)
また、やはり画像ではわからない細かい部分では、サンタ・クルズ侯の後ろにいる将校たちの衣服。手前の青い袖の将校はカラトラバ騎士、後ろの赤系の上着を着ている将校2人はサンティアゴ騎士でした。いずれの騎士団も、スペイン国王によって任命される、スペインでは中世以来の由緒ある騎士団です。他国の騎士団は騎士団章(ペンダント)を首から提げることが多いですが、スペイン騎士団員は衣服の目立つ部分(中央または左胸)に大きく刺繍します。もっとも、絵画としての表象であって、実際の衣服がそうだったかどうかはわかりません。よーく見るとそれぞれ上着と同系色で刺繍されたカラトラバ十字とサンティアゴ十字がわかります。騎士団についての詳細は「八十年戦争期の騎士団」へ。
服装の点でもうひとつ。靴下もそれぞれ柄(というより地模様)が事細かに描いてありました。これも良く見ると全員似たような模様になっているので、ふくらはぎから足首にかけての体の線に合わせるための、当時の立体編みの技術なのかもしれません。
ちなみに、国立西洋美術館所蔵のヴァン・ダイク「レガネス侯の肖像」は、通常常設展にあるものがこの特別展のひとつとして特別展示室内に移動されていました。それ以外にも、常設展には本展示会に関連する他の絵画(たとえばエル・グレコ、ムリーリョ等の同時期のスペイン絵画、本特別展のコンセプトとも合致する哲学者像や宗教画)があるので、会期後もぜひ常設展の鑑賞をおすすめします。
リファレンス
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- プラド美術館展 – アート・エキシビション・ジャパン
- Museo del Prado
- Parker, Geoffrey. The Thirty Years’ War, 2nd edition. Routledge, London. 1997. p. 139.
- Bailey, Anthony. Velazquez and the Surrender of Breda: The Making of a Masterpiece, Henry Holt & Co, 2011