「オランダのロマン主義」から記事を分割しました。ロマン主義歴史絵画を独断と偏見で、ただひたすら並べていきます。
- バロック歴史絵画ギャラリー
- ロマン主義歴史絵画ギャラリー(八十年戦争以外)
もどうぞ。
さらに分割し、八十年戦争の事物を描いたもののみで記事にしました。時間軸は1559-1648年、地域は低地地方全体に限っています。それ以外は「八十年戦争以外」にまとめました。描かれた時代順ではなく、扱っている題材の史実における年号順に並べます。
ロマン主義歴史絵画の特徴は、良く言えば物語性があること、悪く言えばツッコミどころ満載なことです。不必要に若かったり美形に描いてあったり、いろんな部分で盛ってます。探すといくらでもあるうえ、管理人が19世紀人たちのやりすぎ感や妄想感が大好きなので、発見しだい多分どんどん増えます。八十年戦争の歴史画は、どちらかといえば教科書の挿絵のような、笑えるものというより動きの少ないものが多いでしょうか。
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2014年にリヨンでロマン主義歴史絵画を集めた特別展を開催していたようです。Wikimedia内にも特設ページがあります。
L’invention du passé. Histoires de cœur et d’épée en Europe, 1802-1850
ここで紹介したものもちらほらありますね。
ギャラリー
1559年8月。ネーデルランドを去り、スペインへ向かうフェリペ二世。見送りにきたウィレム沈黙公に、「悪いのは議会じゃない、おまえ、おまえ、おまえなんだ!(大事なことなので3回言いました)」…とキレちゃったという、あちこちで登場する素敵エピソード。やっぱり絵にもなってました! 周りの大人の「うわぁ…」なドン引き顔と、子供たちの「ボク何もきこえませんでした」的な表情もみどころ。
1567年。アルバ公が低地地方の執政として派遣されたときの到着の様子を描いたもの。期待に違わず、オネーチャン侍らせてBGM流しながらの超豪華仕様でのご到着。
1568年。ゲーテの戯曲『エグモント』の挿絵。エグモント伯が46歳のオッサンには見えません!(ヒゲも無いし)。 女性画家、と知って妙に納得?
1568年。タイトル通り、14歳の学生の拉致シーン。父のオランイェ公がドイツに亡命した際、カモフラージュとして残していった長男のフィリップス=ウィレムは、その煽りを受けてスペインまで誘拐されてしまいました。ある意味いちばんの被害者かも。
1573年。ハールレム攻囲戦でスペイン兵相手に戦った勇敢なオバちゃん軍団の図。48歳のケナウ・ハッセラールは商売遣り手のモーレツオカンなんですが、ここではだいぶキレイめに描いてあります。個人的には、果たしてご婦人方に当時の重量級の火縄が扱えたのか?というのは、甚だ疑問なのですが。
1573年。ハールレム攻囲戦の次のアルクマール攻囲戦。ハールレムの奮戦に勇気を得たアルクマール市民も、女子供総出で籠城・抵抗を続けました。これは一連のシリーズ画のひとつ。いちばん「場面」っぽいものを選びました。秀吉の小田原攻め同様、壁を挟んでの挑発、というのは古今東西共通なようです。
1574年。アルクマール攻囲戦の次のレイデン攻囲戦。攻囲戦続きますよー。ヒロイックな抵抗の時期は、まさにロマン主義ど真ん中。レイデンでは長引く籠城に飢えた市民たちが、もう降伏すべきだと言って市長を取り囲みます。「ならばわしの肉を食え」と自身に刃を向けた市長ファン・デル・ウェルフの超男気。女性の活躍が続いたので男性も面目躍如。
1570年代後半~1580年代前半? ウィレムは暗殺(未遂)の絵ばかりで、あまり活躍中のものがなかったのでこの一枚を。とはいっても、絵のタイトルも無いようなので、博物館側で「?」付きの仮のタイトルがつけられているものです。左端のウィレムの格好からいっても、晩年に近い時期を描いたものでしょうね。
1579年 こちらもウィレムの活躍。ですが、実際はこの場所には本人はいなかったはず。「ユトレヒト同盟」は彼の次弟のヤン六世をはじめとした急進的カルヴァン派が主導してまとめられたもので、ウィレムはやや後ろ向きな立場にあり、批准したのも少し経ってから仕方なく、といった感じでした。もしくはこの絵は、その仕方なく受け入れた場面を描いたものかもしれません。
1582年。オランイェ公ウィレム一世の暗殺未遂事件。
上:襲撃直後の図。公の隣の水色のドレスの女性が妻のシャルロット、黄色のドレスがおそらくウィレムの妹のカタリナ(逆かも)、少年が2人描いてあるので、中央で犯人吟味の指示を出しているが息子のナッサウ伯マウリッツ、右端がその従兄のフィリップスと思われます。左下が取り押さえられている犯人のジャン・ジョルギー。
下:その後療養中の図。回りには家族や友人たちが、と説明には書いてありましたが、はっきり家族とわかるのは隣の妻シャルロットのみ。奥の十代と思われる男女2人が、おそらく次男マウリッツとそのすぐ上の姉の次女アンナでしょう。
1584年。オランイェ公ウィレム一世の暗殺事件。左側にいる女性たちが妻のルイーズやおそらく長女のマリア。ウィレムの手を取っている息子のマウリッツは幼い妹の一人も慰めています。中央の存在感ある男性は誰でしょう? シント=アルデホンデ卿にしてはちょっと似てないし(アントウェルペン攻囲戦でそれどころじゃないはずだし)、この時期のオルデンバルネフェルトにしてはやや老けてるでしょうか?
1585年。議員たちを率いて、オルデンバルネフェルトがマウリッツにスタットハウダー就任を知らせに来た、の図。おめでとうございマース!お父上の跡を継いで、ホラントとゼーラントの州総督ですよ! …が、マウリッツが若干迷惑そうなのは気のせいか。強制的に大学辞めさせられちゃうしね。
1586年? この「ベルク」はラインベルクのことでしょうか。シェンクというと、1589年のナイメーヘンの襲撃失敗で溺死した絵画ばかりが残されているので、これはちゃんと活躍している時の一枚。とはいえ、ケルン戦争に乗じてウェストファリア地方をブイブイ略奪しまくってる場面を描いているので、あまりほめられた活躍でもないのですが。
1586年。ワルンスフェルトの戦いで致命傷を負ったフィリップ・シドニーが、水を与えられた際、「私よりも重傷の彼のほうに水を与えてくれ給え」と一兵卒にその水を譲ったという騎士道的エピソード。32歳…なのでそれほどオジサン年齢ではありませんが、それでもヒゲが無いので十代にも見えるような若さ。おみ足に取りすがっている人たちのオーバーアクションもさることながら、馬まで泣いてます!
1590年。下半分のぞろぞろいる兵士を気にしなければ、美しい月夜を描いただけにも見える絵画。ブレダの泥炭船の個別記事で紹介した「STUDIO SMACK」の動画も満月から始まるんですが、この絵のオマージュかもしれませんね。しかし、気になって月齢カレンダー調べてみたら、1590/3/4は満月とは正反対の、ほぼ新月に近い日だったようです。冷静に考えて、普通はわざわざ隠密行動するのに満月の夜は選びませんよね。
1591年。「1591年遠征」からハーグへ帰還したマウリッツと、おそらくその奥はウィレム=ローデウェイク。二十代にしてはちょっぴりおじさん気味。お約束のようにきんきら鎧に白馬ですが、実際のマウリッツは基本黒しか着ないと思っておくと、このロマン主義的派手さとのギャップが楽しめます。左の騎兵将校は誰かはわかりませんが、日本の陣羽織に似たようなものを着ていますね。
1596-1597年。「バレンツ海」の名付け親でもある探検家ウィレム・バレンツの、北極圏での越冬を描いたもの。1871年、当時の探検隊が過ごした小屋が発見されましたが、ここにあげた絵のようにもっと前から人気のネタのひとつでもあります。2011年には映画にもなっています。(サイト内紹介記事は下記へ)。
1598年。息子で跡継ぎのフェリペ三世と娘のイザベラに看取られるフェリペ二世。それほど瀕死に見えない…というか元気そう? 「じゃっ。あとはよろ。」て感じの手つきしてますし。
1600年のニーウポールトの戦い。閣下超つえー超かっけーな絵、ベルギーの画家によるオランダ版。やっぱり中央ハイライト白馬なのはお約束。オランダ版…というのは、この絵が現在オランダ王室の所有だからです。右下には捕虜になったメンドーサ提督の姿も。
ニーウポールトからもう一点。「ニーウポールトの戦い 番外編」でもいくつか挙げましたが、この戦いの歴史画は八十年戦争の中でも好んで描かれます。とくにこれはリアルタイム時代から人気の、兄貴超つえー超かっけー、な兄弟図。こちらにも右下方にはメンドーサ提督。そしてその隣で脚を怪我して下馬しようとしているように見えるのはヴィアー将軍でしょうか。ロフッセンさんてロッテルダムの画家なんですが、この記事に挙げた何枚かの絵も、みんなニクい場面ばかりピックアップしてるんです。
1606年。ジブラルタルの海戦での提督の戦死。ヘームスケルクが当時の肖像画とかなり違う感じで描かれているので、こんなふうにタイトルで明記してもらっていないと、トロンプ提督、とか他の提督の名前を出しても通用してしまいそう。しかも、仁王立ちでの戦死だったそうだから、それも表現してほしかった。
1614年。兄弟そろって外交使節を迎えるナッサウ伯たちの図。兄マウリッツが黒服、その左隣の弟フレデリク=ヘンドリクが派手服(しかも三色すべてナッサウ色)というのが、史実に忠実でなんだか微笑ましい。ただ、フレデリク=ヘンドリクがガーター勲章を受けたのはマウリッツの死後なので、2人揃ってガーターのペンダントを提げている図…というのはロマンならではのことです。
1618年4月の図でしょう。モトリーの書いた文を絵に起こしたんじゃないか、というくらいこのシーンに近い記述があります。マウリッツは「市制刷新」の時期、1617年秋と1618年春の二度アムステルダムを訪れていますが、二度めの1618年4月は同年2月にオランイェ公を継いだ直後の訪問となります。いつも金魚のフンしてる弟のフレデリク=ヘンドリク(マウリッツのオランイェ公継承後、代理でフランスのオランジュ領に派遣中)も、画中には見当たらないです。いずれにしても、上のほうに挙げたアルバ公にくらべると幾分地味なスタイルですね。
1621-1625年。アンリ四世王妃マリーが、連作「マリー・ド・メディシスの生涯」を描かせる前または描かせている最中にルーベンスの自宅(1617年建設)に立ち寄った図です。アントウェルペンのルーベンス・ハウスに行ったことがあれば、ここが入口の門のところだとわかるはず。でも、門の前で出迎えている妻は、最初の妻イザベラよりも、二度めの妻エレーナのほうに似ているような。
1622年。終身刑を言い渡されたグロティウスが、妻マリアの手引きで脱獄するシーン。これも人気のモチーフですが、小間使いのエルシェ(見張りをだましたり、箱の中の本人以上に活躍)まで描いてあるのはあまり無いのでこれを選びました。グロティウスの脱獄については、秀逸なコメントとともに敢えて目こぼししたマウリッツと、二度と祖国の土を踏むことを許さなかったフレデリク=ヘンドリクと、兄弟の反応の温度差もおもしろいのです。
1625年。ロマン主義版『ブレダの開城』ですが、これは明らかにリアルタイムのベラスケスのほうに軍配。明記はされてませんが、おそらくオランダ側は、年齢からみてもナッサウ伯ユスティヌス。スピノラさんはザ・イタリア親父を地で行くフレンドリーさ。
1629年。ロフッセンさんたら水彩も描いてました。スヘルトヘンボスを退去するスペイン軍とそれを見送るオランダ軍の図。白馬がスペイン軍の守備隊長アントニー・シェッツ、その右で帽子を取っているのがフレデリク=ヘンドリク。それより上のテントにいる女子供がよーく見ると細かい。ボヘミア王妃エリザベス・ステュアートの横には長男次男と思われる少年、その横で幼児(女の子の格好をした長男ウィレム二世)の手を引いているのはオランイェ公妃アマーリア。さらにその右では長女ルイーゼ=ヘンリエッタを抱いた乳母もいます。
1632年。コレはきましたよ。あまりにカッコよすぎて鼻血級です。こういうの待ってたんです。しかもエルンスト=カシミールなんて誰得チョイスは、重箱の隅大好きなロマン主義のまさに醍醐味といって良い。さすがロフッセンさん。(いや、エルンスト=カシミールはすごい人なんですよ。個人的にはマウリッツとかフレデリク=ヘンドリクよりはるかに評価上)。場所ルールモント、一発の流れ弾、老元帥…ってシチュエーションは、マーストリヒトで戦死したダルタニャンともかぶりますね。
1630-40年代? 冬王フリードリヒ五世の次女ルイーゼ=ホランディーネは、一家でオランダで亡命生活を送りつつ、画家ホントホルストに絵を習って最終的にはプロ並(貴族なので本物の職業画家にはなれない)になります。絵を見てもらっているのが母親のエリザベスではなくオランイェ公妃というところも訳ありげ。エリザベスはもともと自分の子供たちに興味がないうえに、ホランディーネが趣味ではなく本格的に絵を描くことに反対していました。
1641年。のちのオランイェ公ウィレム二世が、王女との結婚のためイングランドに渡った際のシーン。トロンプ提督の旗艦に乗っていったのは有りとしても、果たして国王夫妻に対して提督が公子を紹介するなんてありえるのか??と疑問符がつかざるを得ないシーンですが、それもありなのがまたロマンなのです。
1648年。有名なテル=ボルフの絵画と同じ「ミュンスター条約の批准」を描いたものです。締めとして最後にもってきてみました。手前でこっそり何かを拾おうとしているのが気になりますが、この絵もリアルタイムのテル=ボルフに軍配ですかね。
現代のスペイン歴史画
ロマン主義絵画ではないのですが、21世紀現役のスペインで、写実的で美麗な歴史画が描かれています。ロマン主義との違いは、ラテンな国なのに「エピソード爆発!楽しいでしょ?」って感じがまるでなく、そこはかとなく漂うもの悲しさというか透明な空気感が特徴です。このデジタルの時代においてキャンバスに筆で描いており、そのメイキング画像なども公開されています。
1585年。「ロクロワ」で有名なダルマウさんの別作。戦いの最中、土の中から聖母マリアのイコンが発見され、そのおかげでスペイン軍が勝利できた…というエピソードを描いたもの。
1625年。スピノラ侯と彼のテルシオ。この絵のタイトル、「勝利」なんですよ。誰一人喜んでいるように見えない荒涼感が印象的な作品。
リファレンス
- ヒュー トレヴァー=ローパー『ハプスブルク家と芸術家たち』 、朝日新聞社、1995年
- ヒュー トレヴァー=ローパー『絵画の略奪』 、白水社、1985年
- フロマンタン『オランダ・ベルギー絵画紀行―昔日の巨匠たち』 、岩波書店、1999年