対戦国 |
オランダ |
スペイン |
---|---|---|
勝 敗 | ○ | × |
参加者 | オランイェ公フレデリク=ヘンドリク ナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミール ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレム コリニー伯ガスパール三世 ティルベリー男爵ホレス・ヴィアー ウィンブルドン子爵エドワード・セシル リンブルク=シュティルム伯ヘルマン一世オットー トマス・ファン・スターケンブルック |
フロッベンドンク伯アントニー・シェッツ (ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリク) (モンテクッコリ伯エルネスト) (ナッサウ=ジーゲン伯ヤン八世) |
「掘れないなら、掘れるようにすればいい」とばかりに、川を堰き止め、湖を干上がらせ、25マイル四方もの地形を思うがままに変えていく。何もかもが大規模なスペクタクルに、噂をきいて見学にきた貴族たちは度肝を抜かれた。資金・技術・頭脳・人員――あらゆるものを駆使して成し遂げられたこの勝利は、マウリッツ以来続いてきたオランダ攻囲技術の集大成ともいえる。
この攻囲戦が、長い低地地方での戦争の中でも、最上の出来事のひとつと評価されることを望む。
オランイェ公フレデリク=ヘンドリク/”Memoire”
はじめに
新オランイェ公として1627年のフロール攻囲戦を成功に導いたフレデリク=ヘンドリクが、その名声を磐石のものにした攻囲戦。ブレダを失ったのち、フロールは運にも助けられ辛うじて手にしましたが、過去に前オランイェ公の兄マウリッツが何度も失敗を重ねたスヘルトヘンボスを攻略したことで、フレデリク=ヘンドリク自身やっと個人として認められた感があります。もちろん、従兄のナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミールをはじめとして、1590年代以来のベテラン連隊長たちのサポート無しではこの成功は語れません。敵方であるスペイン救援軍を率いるのは、過去何度も戦っている従兄ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリクです。
スヘルトヘンボスはかつてのブラバント公国の首都で、カトリック司教座でもありました。国境沿いの紛争地帯にある街らしく、攻囲への備えは完璧で、1年間の攻囲にも耐えられる食料を備蓄していました。当時のスヘルトヘンボス知事はフロッベンドンク伯アントニー・シェッツ。30年以上に渡って知事を務めており、マウリッツ公による5度の攻囲をすべて防いできました。
「スヘルトヘンボス攻囲戦(1629)」を描いた油彩は、おそらく八十年戦争の野戦・攻囲戦の中で最も多く作成されています。この記事の中でもできる限り多くの油彩を紹介しています。トップに挙げたフレデリク=ヘンドリクとエルンスト=カシミールのツーショットを描いたものが有名で、アムステルダムの国立博物館で常設展示されています。(現物は意外とサイズ小さめです)。
2013年、スヘルトヘンボス市が「スヘルトヘンボス攻囲戦(1629)」を描いた絵画を購入しました。ずっと個人所有だったのか、今まで知られていなかった絵画で、作者も購入当時は不明。修復の過程で作者も判明し、2014年以降市庁舎で広く公開されています。 Bossche Encyclopedie “Beleg 1629“
経緯
1620年代に入ると、大規模化した攻囲戦には休戦前とは比べ物にならないくらいの莫大な費用が必要となり、1627年のフロールでかかった戦費の回復のため、連邦議会は翌1628年は一切の軍事行動を控えざるを得ませんでした。ところが翌年、状況は一変し、国際情勢がオランダにとっては絶好の追い風の様相となってきました。 フレデリク=ヘンドリク自身がまとめたそのアドバンテージは4つ。
- ピート・へインが西インド諸島でスペイン艦隊を拿捕し、潤沢な資金が手に入ったこと
- フランドル軍にスピノラ侯とその配下の古参の将校たちが不在なこと
- 皇帝軍はデンマーク軍との戦争に忙殺されていること
- フランス国王が自ら大軍を率いてカザーレ救援に発ったこと(マントヴァ継承戦争)
敵から奪った財宝で資金面は完全にクリア、しかも、三十年戦争の激化により、北ではクリスチャン四世が皇帝軍を引き付け、南ではルイ十三世がマントヴァ継承戦争に介入し、図らずもオランダ方面へのスペイン軍(コルドバ将軍)あるいは皇帝軍(ティリー将軍)の援軍を妨げるかたちになりました。
スヘルトヘンボスは、北を東西に走るアー川、西を南北に走るドメル川に挟まれています。低地であるオランダの中でもとりわけ水はけの悪い沼地で、地下トンネルに地雷を敷設することはおろか、塹壕を掘ること自体もほぼ不可能でした。オランダ軍の得意分野が使えない難所ですが、逆に言えば、いったん手に入れてしまえば、これほどの天然の要害は防備に手もかからず、南部の国境の抑えとして格好でもあります。
フレデリク=ヘンドリク個人の動機としては、もちろんブレダの奪還が最終的な着地点です。スヘルトヘンボスはブレダの隣町で、攻略の足場としても最適な立地です。フレデリク=ヘンドリクが事有るごとにスピノラ侯に言及しているところにもその意識が垣間見えます。
戦闘
この攻囲戦のために、24000の歩兵・4000の騎兵が集められました。外国の軍隊を多く徴募し、ドイツ連隊に並んで、スコットランド連隊が3000名の大所帯です。また、のちにイングランド内戦で活躍するイングランド貴族たちや、のちのフランス将校たちも含まれています。
- 前衛(88中隊):シャティヨン元帥を中心としたフランス連隊、ワロン連隊
- 主力(67中隊):エルンスト=カシミール元帥、ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯のドイツ連隊、スコットランド連隊、フリース連隊
- 後衛(89中隊):ヴィアーとセシルを中心としたイングランド連隊、ブレーデローデ卿のオランダ連隊
- 騎兵:スターケンブルック、シュティルム伯(独)、ブイヨン公(仏)
この攻囲戦は、のちの有名なイングランド・フランス将校たちの若年期の登竜門にもなりました。フレデリク=ヘンドリクの甥にあたるブイヨン公フレデリク=モーリスとのちのフランス大元帥テュレンヌの兄弟、ホレス・ヴィアーの本家筋にあたる19代オックスフォード伯とその従兄、イングランド内戦議会派の指導者となるトマス・フェアファクスなどが挙げられます。
オランダ軍はまずは、スヘルトヘンボスの真北で、マース川とドメル川の合流点にあたるクレーフェクールを水路の補給拠点とし、信頼を置くイングランドの古参連隊にその守備をまかせます。そして東のモーケルヘイデを兵の集合地点および作戦本部とし、西はいくつかの小砦を占拠してブレダからの補給路を遮断しました。その後街の周辺に環状攻囲線の建設が始められます。この包囲線の要所、南のフーフトにフレデリク=ヘンドリクの本陣、街を挟んで対角線のオルテンにナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯の陣、そのやや南東、スヘルトヘンボスの最も強固なヒンタム門に面したヒンタムにエルンスト=カシミール元帥の陣、と3つのキャンプが張られました。
最終的にこの環状攻囲線の長さは一周45kmにもなるのですが、攻囲開始から3週間めには早くもすべての線がつながり、各キャンプの孤立化も解消しました。同時に、アー川とドメル川を堰き止め、攻囲線の外側を人為的な洪水状態にして敵の接近を防ぎます。逆に攻囲線の内側は、街への塹壕が掘れる程度の陸地部分を確保しなければなりません。ここで、レーフワーテル(世界遺産「ベームステル干拓地」を監修)等の技術者が集められ、水車やポンプを用いた排水のシステムの開発も始まりました。ちょうど攻囲開始1ヵ月後には、これらの治水技術も含めたすべての準備が整いました。
この大掛かりな干拓システムの運用が開始されると、3つのメインキャンプのほか、2つのサブキャンプも建設されます。ポルダーの排水が進み日々湿地と乾地に分断されていくに伴い、それぞれのキャンプから街への塹壕掘削が開始されます。とくにフレデリク=ヘンドリクのフーフト本陣からは、街との間に2つの大きな砦があり、まずはその攻略が図られました。
スペイン側が組織したスヘルトヘンボスへの救援部隊は、2年前のフロール攻囲戦の時同様ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリクが指揮を執りました。が、執政イザベラの命を受けてファン・デン=ベルフ伯がトゥルンハウトを出発したのは6月末で、既にオランダの防御網が完成してから1ヶ月が経過していました。その完成度を一目見て、ファン・デン=ベルフ伯は攻略は不可能と悟りますが、それでも数回のスカーミッシュは試みられました。
フェルーウェ侵入とヴェーゼル占領
7月上旬、ファン・デン=ベルフ伯はいったん自領のボクステルまで退却すると、皇帝軍からの援軍の申し出を受け、モンテクッコリ伯エルネストと合流しました。そして正面作戦は諦め、陽動によって攻囲を放棄させようと考えます。
フレデリク=ヘンドリクの隊がイザベラ砦・聖アントニウス砦を奪取したのは、ファン・デン=ベルフ伯が一時退去した後、やっと7月半ばになってからです。その直後、ファン・デン=ベルフ伯は突如フェルーウェに侵入しました。 この攻囲戦の別動の2作戦については別記事で扱います。
この陽動作戦によるアメルスフォールト占領という緊急事態に、フレデリク=ヘンドリクは攻囲軍から次々に兵を割かざるを得ませんでした。最終的には、ドイツ系将校と騎兵将校のほとんどと、攻囲軍の3分の2もの兵員をも派兵したため、45kmの長さの塹壕には無防備な箇所が何ヶ所もできました。その分掘削速度も下がりましたが、フレデリク=ヘンドリクはできるかぎり作業を急がせ、9月に入ってようやく城門下へ地雷を敷設することが可能になりました。
余波
9月11日の地雷爆破からはじまった開城交渉は比較的スムーズにまとまり、14日には調印に至ります。市側からはオプホーフィウス司教も交渉に参加しカトリック礼拝の許可を求めました。しかし、かつての司教座且つ南ネーデルランドと国境を接する街にカトリック信徒を多数内包するという状況は、将来的に反乱分子やスパイたちの温床になる危険性があるとして、修道女を除くすべてのカトリック教徒は街からの退去を求められ、街でのカトリック礼拝は禁じられました。この措置によって街の人口は半減したといわれます。
何枚もの戦勝画が量産され、技術面もクローズアップされて、一見成功すべくようにして成功したような様相のスヘルトヘンボス攻囲戦ですが、4ヵ月半にわたる長丁場の合間には何度も難局に見舞われました。とくにアメルスフォールトの陥落によって、共和国がかつてない危機にさらされた局面がその頂点でした。フレデリク=ヘンドリク自身も、4つのアドバンテージを挙げつつも、当初より「背水の陣」との覚悟でこの攻囲戦に臨み、毎週のように繰り返される議会からの撤退勧告にも「最初に決めたことを変えるつもりはない」と相当に強い意思でそれを跳ね返しています。一度決めたら梃子でも動かないその姿勢は、兄譲りの特質のひとつです。
フェルーウェから撤退した皇帝軍のモンテクッコリ伯たちは、いったんブリュッセルの執政府に身を寄せます。慌しい撤退に置き去りにされてしまった敗残兵たちは、エルンスト=カシミール元帥に一掃されました。また、やはり皇帝軍の一部を率いて後から援軍に訪れたナッサウ=ジーゲン伯ヤン八世には、その実の弟であるナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレムがあたり、同様に撃退に成功しています。
なお、一方のファン・デン=ベルフ伯は、この頃から急速に南ネーデルランド執政府への不満を強めていきます。結果として、3年後にはスペイン軍から離反(「南ネーデルランド分割構想」参照)し、フレデリク=ヘンドリクの「マース川遠征」に寄与することになります。 長年知事職にあったフロッベンドンク伯アントニー・シェッツも街を離れましたが、この8年後、73歳にしてフレデリク=ヘンドリクのオランダとシャティヨン元帥のフランス連合軍と再戦し、ルーヴァンの街を守りました。
攻囲戦の絵、と言われないとわからないほど、長閑な風景画然とした一枚。
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。
- Kikkert, “Frederik Hendrik”
- Poelhekke, “Drieluik”
- Wilson, “Thirty Years War”
- Picart, “Memoires”