八十年戦争中に科学者として活躍した一家です。とくに父親のアドリアーン・アントニスゾーンは、「旧オランダ式築城術」を用いた要塞建築の多くに関わっています。
アドリアーン・アントニスゾーン Adriaen Anthonisz. van Alcmaer
- アルクマール市長、地図製作者、数学者、要塞技師、築城技師長 Stercktebouwmeester der Vereenighde Nederlanden
- 生年: 1541 アルクマール(蘭)
- 没年: 1620 アルクマール(蘭)
生涯
アルクマール市長も務めたことのある技師。父親は計量人でしたが、オランダの「反乱」に役立ちたいという気持ちから測量技師を目指しました。理論派というより完全な現場主義者。数学者シモン・ステフィンが発展させた「旧オランダ式築城術(Oud Nederlands vestingstelsel)」を最初に完成させ、共和国の多くの街に実際に導入しました。1582年よりオランダ軍直属の技師となり、のちには共和国築城技師長の名で呼ばれました。オランイェ家専属数学者にもなっています。1585年に円周率πの近似値(メチウス数)を求めたことでも知られています。
ブレーデローデ家出身の妻と結婚し、子供は8人。うち2人がやはり技術者として有名になります。彼らはレイデン大学時代に「測量」を意味するオランダ語をラテン語化した「メチウス」のあだ名で呼ばれ、その後そのままそれを自分たちの苗字としました。(これはもともとの出自、フランスのメッツからとられたという説もあります)。
共和国の資金難のため、望む全ての街の要塞化はできなかった…とのことですが、それでも彼によって50から60もの街が要塞化されています。うち、有名な要塞都市は以下のようなところです。
- アルクマール
- バウルタンゲ
- ブレーデフォールト
- クーフォルデン
- ホリンヘム
- フースデン
- カンペン
- ナールデン
- シェンケンシャンツ
- ウィレムスタット
- ズヴォレ
リファレンス
- “NNBW“
アドリアーン=アドリアーンスゾーン・メチウス Adriaen Adriaensz. Metius
- 地理学者、天文学者、フラネケル大学学長(1603-1632)
- 生年: 1571/12/9 アルクマール(蘭)
- 没年: 1635/9/6 フラネケル(蘭)
生涯
アドリアーン・アントニスゾーンの長男。フラネケル大学、レイデン大学で学んだ後、一時期ロストック大学の天文学者ティコ・ブラーエのもので働いていたようです。1595年頃に帰国して父親の築城技師としての軍務を手伝っていましたが、1598年の最初の著作がナッサウ伯マウリッツとウィレム=ローデウェイク両者の目に留まり、その後即フラネケル大学の教授に任命されました。天文学、航海術、軍事工学等、多岐にわたる授業をおこなっています。1603年から学長。
同じくアルクマール出身で地図製作者で出版業を営むウィレム・ブラウとは、年齢も同じで、同時期にティコ・ブラーエのもとで働き帰国時期も一緒でした。おそらくブラウがアムステルダムに移住した後も親しい関係にあったと思われ、ブラウの出版社からの出版をしたり、出資も受けていたようです。
リファレンス
ヤーコプ・メチウス Jacob Metius
- 光学技術者、発明家
- 生年: 1572? アルクマール(蘭)
- 没年: 1628? アルクマール(蘭)
生涯
アドリアーン・アントニスゾーンの次男。詳しい生涯についてはわかっていません。生地アルクマールでレンズ職人をしていたようです。1608年に望遠鏡の発明で特許を申請しましたが、ミデルブルフのリッペルスハイの申請と同時期だったため、両者に特許は下りていません。
このときの経緯については「軍用望遠鏡」へ。
リファレンス
- “NNBW“