- 法律家、政治家、法律顧問 Landsadvocaat
- 生年: 1547/9/14 アメルスフォールト(蘭)
- 没年: 1619/5/13 ハーグ(蘭)
生涯
ユトレヒト地方の小都市アメルスフォールトの小貴族の家系の生まれ。ルーヴァン、ブリュージュ、ケルン、ハイデルベルクなどの各大学で法律学の教育を受けました。22歳頃にハーグとデルフトで弁護士業を興しています。1572年、オランイェ公ウィレムの軍に義勇軍として加わりますが、実際に戦闘行為に加わったのは、翌年のハールレム攻囲戦とさらに翌年のレイデン攻囲戦だけのようです。1577-86年にかけてロッテルダムの法律顧問となり、徐々に頭角を現すようになります。
オルデンバルネフェルトは、かねてからウィレムの外国頼りの政策には反対しており、ウィレム自身が統治者として立ってでも、低地地方が独自に主権を持つべきという考えを持っていました。ウィレムの暗殺によって、オルデンバルネフェルトもいったんイングランドに主権を移譲することも止む無しとしますが、エリザベス女王の総督として派遣されてきたレスター伯が中央集権を無理に推し進めたことが、却ってその州主権主義を強めたようです。オルデンバルネフェルトはウィレムの次男ナッサウ伯マウリッツをホラント・ゼーラント両州の州総督として擁立し、自らも1586年にホラント州の法律顧問に就任すると、レスター伯を失脚へと追い込みます。そして連邦議会を最高意思決定機関とし、今後は二度と外国に主権を認めないことを表明しました。オランダ連邦共和国の誕生です。オルデンバルネフェルトはホラント州ひいては共和国全体を実質的に掌握する立場となっていき、対外的にも、共和国をフランスやイングランドと対等な立場の主権体にまで引き上げました。1596年の英仏との三国同盟がその例に挙げられます。
1590年代、オルデンバルネフェルトとマウリッツはそれぞれの得意分野で共同していました。この時期に一気に盛んとなった東インド貿易は、1602年オランダ東インド会社として連合し、のちの黄金時代の基礎となります。またマウリッツがその軍事的能力を発揮できたのも、オルデンバルネフェルトの全面的な、とくに金銭面での援助があったからこそです。
オルデンバルネフェルトとマウリッツとの間に溝が生じはじめた契機は、1600年のフランドル遠征といってほぼ間違いないでしょう。もちろんそれ以前にもそれなりの意見の不一致はありましたが、国境地域防衛の道半ばにして、オルデンバルネフェルト等レヘント層は軍事行動に商業的利益を追求するようになります。これが軍部だけではなく、ホラント州以外の州の反発をも招く原因となっていきました。また、反対派の激しい反対を抑え、交戦国スペインとの間に12年の休戦条約を締結したのもオルデンバルネフェルトの主導によるものです。
休戦期間中、カルヴァンの「予定説」をめぐる神学上の論争が勃発すると、オルデンバルネフェルトとマウリッツとの関係はさらに冷却していくことになります。オルデンバルネフェルトはアルミニウス派(穏健派)の側に立ち、1617年、ホマルス派(厳格派)に圧力をかけるため、ホラント州やユトレヒト州で独自の市民軍の召集をはじめました。これに対してマウリッツはホマルス派の立場を表明し、半ば強制的に連邦議会の支持を得てこれら市民軍の解体を決定しました。
詳細は「宗教論争からクーデターへ」参照ください。
さらにこの過程でマウリッツは、1618年、オルデンバルネフェルトほか3名(グロティウスを含む)の逮捕にふみきり、反逆罪で裁判にかけることを決定します。そのときのオルデンバルネフェルトの台詞「逮捕? 私が?」が、当初の楽観視を物語っています。しかし、裁判は反オルデンバルネフェルト派の裁判官を集めた特別法廷でおこなわれ、最後まで自分の「国家反逆罪」を認めなかったオルデンバルネフェルトは最終的に1619年5月13日に斬首刑に処せられます。彼の死の4年後、息子や婿たちがマウリッツ暗殺を企てて失敗したため、共和国内でのその家系の権勢も一代限りとなってしまいました。
オルデンバルネフェルトは、共和国設立期には対レスター伯、クーデター期には対マウリッツと、対立軸で語られることの多い人物です。そのためその人となりに関しては、評価者の立場によって正反対に論じられています。とはいっても、頑なであった―良くいえば一本筋が通っている、悪くいえば傲岸不遜―というのがある程度共通の見解かと思われます。