R.Fruinが名づけた「十年 Tien Jaren」は、八十年戦争下の1588-1598の十年間、オランダ側が完全攻勢な一連の攻囲戦争の時期を指します。東部・北部・南部の諸都市をスペインから奪還し、共和国の傘下におさめました。これをオランダでは、共和国の「庭」を囲む de tuinen van de Republiek te sluiten と表現します。
この表現について調べてみたので記載します。
「庭」の起源
紋章学にも「ホラントの庭 Hollandse tuin」というモチーフがあります。現代ではヘールトライデンベルフとヘントの紋章にしか残っていないようですが、この絵でいう周りを囲んでいる生垣のことです。tuinが単数形、tuinenは複数形です。
諸説あるようですが起源は古く、1406年当時のホラント伯ウィレム六世がアルケル戦争の最中に用いた印章のデザインに遡るといわれています。その前年の1405年、ウィレム六世はハーヘステイン城攻囲戦によりアルケル領主よりこの城を奪取し、ユトレヒト司教とともに取り壊しました。Hagesteinつまり「庭」と「石」の意味で、ここを手に入れたことを記念し「庭」をモチーフ自らの印章に取り入れたと考えられます。
HageもしくはHaagは「生垣」と訳されることが多いですが、要は何かで囲った土地のことです。そのため、「庭」や広い場合は「領地」の意味にもなります。
ただ、この時点では単にハーヘステインという名称に紐づく図像を示しているだけで、まだオランダ全体のことを指しているのではなさそうです。
そしてHaagといえばDen Haag、オランダの行政上の首都デン=ハーフ(ハーグ:正式名称 ‘s-Gravenhage スフラーフェンハーヘ)です。日本語のハーグの紹介文だとだいたい「伯爵の生垣の意味で…」と書かれていますが、ハーグに関しては「領地」と訳した方が自然な気がします。しかしこのハーグとHollandse tuinとの直接の関わりはわかりませんでした。14世紀以降ハーグの印章には門しか描かれておらず、ハーグの紋章にコウノトリが現れたのは16世紀以降ですが、こちらにも囲いのようなものは描かれていません。シンボル上、ハーグと「庭」は関係なさそうです。
「オランダの乙女」
ここでもう一つのオランダの国家シンボルとしてのモチーフに触れておきます。オランダの乙女とでも訳しましょうか、英語だとDutch MaidenやNetherlands Maiden、オランダ語だとNederlandse Maagd、国を乙女に擬人化したもので、この概念自体は古代ギリシアからありルネサンスで再度人気となりました。
オランダの場合、低地地方全体の場合もありますし、各州ごとに乙女になぞらえられることもあります。先の「庭」やライオン(レオ・ベルギクス参照)と組み合わされて、16世紀くらいには、「生垣の中にライオンと座る少女」というだけで低地地方を表すという共通認識ができていたと思われます。
1576年のヘントの和平を表した寓意画には、17州それぞれの乙女が庭の内部に並んでいます。ただし、この版画が作成されたのがその半世紀後なので、1576年時点で「庭」の範囲を17州全体と捉えていたかどうかは疑問の残るところです。
共和国の「庭」を「囲む」
では、その対象が「共和国」となり、それを「囲む」という表現はいつからでしょうか。やはり、ズトフェン攻囲戦(1591)とフェンロー攻囲戦(1646)にも紹介した、ナッサウ伯マウリッツとウィレム=ローデウェイクの語った言葉(ウィレム=ローデウェイクの秘書が書き残しています)が起源である可能性が高いです。
川沿いのあらゆる要所、たとえば、エイセル川沿いのデフェンテルやズトフェン、ワール川沿いのネイメーヘン、マース川沿いのフラーフェ、フェンロー、マーストリヒト、そしてフロニンゲン。まずは1つ、そして次…というように川沿いの街を順に征服していけば、その「庭」の中にあるすべての小さな街は、補給路と糧食を絶たれて自滅するだろう。
ここでは低地地方の3本の川に囲まれた地域を「庭」としており、結果として、ウェストファリア条約(つまりオランダ共和国の国境の確定時点)でフェンローを除くすべてがオランダの手にするところとなっています。マウリッツとウィレム=ローデウェイクが征服すべき地域の具体的な目標を明示し、その直後に「十年」の攻勢の時期があり、「庭を囲む」という視覚表現が多くの寓意画や風刺画、パンフレットで人口に膾炙していったと考えられます。マウリッツの時代の版画にはとにかくこの生垣が大量に登場します。
十二年休戦条約の記事で挙げたパンフレットの多くにも、乙女と生垣のモチーフが描かれているものが複数あります。ここに再掲したものは、左に南ネーデルランド諸州の乙女が9人見えます。右側の生垣の中にはマウリッツと北ネーデルランド各州の乙女たち(8人いるのでおそらくドレンテ州を含む)がいますが、その生垣は半分しか囲まれていません。おそらく、休戦によって囲む作業が中断されていることを表しています。
「ヘントの和平」の16世紀時点で、ネーデルランド17州全体が庭の内側と考えられていたなら、北半分でしかない共和国の範囲は、当初より縮小してしまったことになり、南半分を囲い込めていないことになります。
そしてフレデリク=ヘンドリクの時代になると、「庭」の表現はぐっと減ります。ここに挙げたものは、シェンケンシャンツ攻囲戦時にフレデリク=ヘンドリクが枢機卿王子フェルナンドとリシュリュー枢機卿の板挟みになっている様子の風刺画です。フレデリク=ヘンドリクは戦勝画が多く、あまりこういった批判的・攻撃的な内容のパンフレットが多くないからかもしれません。
戦勝画には、乙女や各州を表す紋章、もしくはライオンや戦勝車などわかりやすい勝利のモチーフが用いられており、庭や生垣が描いてあるものがほとんど見当たりません。純粋に勝利を称える内容にはあまり用いられないようです。
そして少し時代が下って、生垣はオランダ侵略戦争の頃にまた現れ始めます。これも党派対立の時代であることが共通していますね。
リファレンス
- Graaf, R. de, Oorlog, mijn arme schapen, 2004