対戦国 |
オランダ |
スペイン |
---|---|---|
勝 敗 | × | ○ |
参加者 | オランイェ公フレデリク=ヘンドリク ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレム ナッサウ=ディーツ伯ヘンドリク=カシミール ブレーデローデ卿ヨハン=ヴォルフェルト ナッサウ=ジーゲン伯ハインリヒ ナッサウ=ベフェルウェールト伯ローデウェイク ポルトガル公マヌエル=アントニオ (シャティヨン伯ガスパール三世・ド・コリニー) (ド・ラ=フォルス公ジャック=ノンパール・ド・コーモン) |
枢機卿王子フェルナンド (カリニャーノ公トンマーゾ=フランチェスコ) (ナッサウ=ジーゲン伯ヤン八世) (オッタヴィオ・ピッコロミーニ) |
王弟の率いるスペイン軍はかくも強いのか。1638年、フェリペ四世王弟フェルナンドは、60年前のフェリペ二世王弟アウストリア公ドン・ファンによる「ジャンブルーの戦い」に次ぐ、スペイン大勝利を演じてみせた。逆に先年のブレダ奪還の勢いのままアントウェルペン奪取を試みたオランダ軍は、近年ないほどの野戦での大敗を喫する。しかもこのときフェルナンドが用いた戦術は、祖父や曽祖父の時代にその威力を発した「テルシオ」だった。軍制改革からちょうど半世紀、カロの惨劇は、オランダ軍そのものだけではなく、その自信やプライドまでをもズタズタにした。
低地地方との長い戦いが始まって以来、国王陛下の軍隊の成し遂げた最も偉大な勝利でありましょう。
枢機卿王子フェルナンド/ Israel, J.I., Conflicts of Empires, 1997
はじめに
ソースの無い昔の記憶なので曖昧ですが、かつて八十年戦争ではこの戦いのことを、1638年のアントウェルペン攻囲戦とひとくくりにし、あまり個別の戦闘として重要視していなかったと思います。そもそも三十年戦争のフランス参戦(1635年)は、正確には仏蘭条約による仏蘭合同作戦でもあるのですが、こちらも、フランスが満を持してスペインに「宣戦」したのに反して、オランダは既にスペインと数十年に渡り交戦中で新たに宣戦する必要もなかったため、あまり共同戦線という事柄が強調されていません。この戦いそのものが三十年戦争の戦いの一貫として取り上げられるようになり、八十年戦争の側でもアントウェルペン攻囲戦から切り離して考えるようになったものと思われます。実際、アントウェルペン攻囲の計画はあったものの、この戦いの失敗によりアントウェルペンの街自体の攻囲にまでは至っていないので、「アントウェルペン攻囲戦」という用語を使うことに疑問が呈された可能性もあります。
なお、このカロの戦いも、「Battle」(野戦)とするものと「Action」(小規模戦闘)とするものがあります。17世紀も第二四半期になると、各軍10000人以下の戦いは小規模とみなされる場合があるのかもしれません。
経緯
先年の「ブレダ攻囲戦(1637)」でブレダを取り戻したオランダ軍は、勢いに乗り、アントウェルペン攻囲を決定しました。両軍ともにブレダ以上に重要な街がアントウェルペンです。オランダ側はスヘルデ川の閉鎖を完全にコントロールするため、アントウェルペンを自軍の統制下に置くことが共和国以前からの悲願であり、逆にスペイン側からすれば、スヘルデ川の閉鎖解除の機会を窺うためにも、アントウェルペンを自領とし続ける必要があります。スペイン国王フェリペ四世は、ライン川沿いに展開していた王弟フェルナンド枢機卿に、即刻アントウェルペンとその近辺の防備を強化するよう命令を出します。フェルナンド枢機卿は、ヴァランシエンヌ近郊で7000の戦力を展開していた神聖ローマ皇帝軍のピッコロミーニ元帥にも援軍を要請しました。
ここでオランダ軍と連携しているフランス軍が、5月末、フランス国境のサン=トメール攻囲戦をはじめます。こちらの司令官はオランイェ公フレデリク=ヘンドリクの従弟ガスパール三世ド・コリニー=シャティヨン元帥です。ピッコロミーニ元帥はフェルナンド枢機卿の要請を断ってサン=トメールに向かいました。フェルナンド枢機卿は現在手持ちの8000の兵での対応を余儀なくされました。
オランダ軍はフレデリク=ヘンドリクのもと、22000の兵を準備していました。元帥のナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレムのほか、各連隊を率いたのは下記の将軍たちです。身内で固められているのは相変わらずですが、二世代前の1600年前後の時代と違って、外国の連隊もオランダ将校が率いています。
- スコットランド連隊 ナッサウ=ディーツ伯ヘンドリク=カシミール
- ドイツおよびワロン連隊 ブレーデローデ伯ヨハン=ヴォルフェルト(フレデリク=ヘンドリクの義弟)
- 北ホラント連隊 ナッサウ=ジーゲン伯ハインリヒ(ウィレム元帥の実弟)
- フランス連隊 ナッサウ=ベフェルウェールト伯ローデウェイク(マウリッツの庶子)
- イングランド連隊 ゾルムス伯ヨハン(フレデリク=ヘンドリクの義兄)
戦闘
6月13日から14日にかけて、ウィレム元帥の6000の兵が、アントウェルペン西のスヘルデ川河口近くで川を渡り、リーフケンスフック砦を容易に奪取しました。この砦の司令官が、金銭や命と引き換えに、自らオランダ軍に砦を差し出したためです。残りの16000の本隊はスヘルデ川のこちら側のリロ砦を占拠し、ここを本陣とします。両岸から川を東へさかのぼり、アントウェルペンの街に至るという計画です。対岸のウィレム元帥のカロのキャンプには、リロ砦から小型輸送船で物資が間断なく届きます。17日までに、ナッサウ=ディーツ伯ヘンドリク=カシミールの騎兵隊がいくつかの砦を占拠し、川縁の土手も押さえました。ただ、ヘンドリク=カシミールはこの後アントウェルペン攻囲軍を離れなぜかネイメーヘンに向かっています。弟のウィレム=フレデリクはカロのキャンプに残りました。
ウィレム元帥は不要な砦を取り壊して拠点を3つに絞り、それぞれ守備兵を配置して土木作業を開始します。フェルナンド枢機卿が向かっている、という情報を得ていたウィレム元帥は、兵たちにも警戒を怠らないよう指示を出し、襲撃への準備も整えていたつもりでした。
アントウェルペンに到着したフェルナンド枢機卿は自軍を3つに分けました。主力としてスペイン・ワロン古参兵からなる3000人のテルシオ、ネルトリンゲンの戦いで活躍した2000人からなるテルシオ、残りの2000人からなるテルシオです。数で劣るスペイン軍は、まずはカロの分隊の側を叩くため、6月20日の深夜に南側からスヘルデ川を渡って、まだ夜のうちに、ウィレム軍の3つの拠点にそれぞれこれら3つの軍で夜襲を仕掛けました。
スペインの襲撃に対する警告があったため、オランダ軍の将校たちも、これに可能な限り応戦し、撃退を試みたようです。が、やはり夜襲に対して、日中同様には充分に対応することはできませんでした。戦闘は12時間近くも続き、最終的にはパニックでオランダ軍は崩壊しました。この間にスペイン軍は占拠されていたすべての砦を取り戻し、リーフケンスフック砦に居たウィレム元帥の一人息子マウリッツ=フレデリク(17歳の未成年のため軍人ではなくまだ盾持ちです)を殺害しています。交戦不能と判断し投降した後の殺害だったため、スペイン側のこの行為は激しく非難されました。
サン=トメール攻囲戦
一方、フランス国境地帯で攻囲戦の同時進行をしていたサン=トメールでは、シャティヨン元帥の攻囲軍に、スペイン軍のカリニャーノ公がやはり夜襲で側面攻撃を加えて打撃を与え、補給路を分断する位置の砦を占領することに成功していました。フランス軍にはド・ラ=フォルス公の援軍が加わりますが、さらにここに皇帝軍のピッコロミーニ元帥軍が到着し、7月16日に最終的にフランス全軍を退却に追い込みました。サン=トメールでの勝利の後、いずれの軍もフランス軍を追うことなく、スペイン軍はブリュッセルへ、皇帝軍はクレーフェへ向かうことになります。
サン=トメール攻囲戦のスペイン軍には、ナッサウ=ジーゲン伯ヤン八世、ロス=バルバセス侯フィリッポ・スピノラ(アンブロジオの長男)など、おなじみの将軍も参戦しています。なお、オランダ軍のウィレム元帥はヤン八世の実弟です。ヤン八世は騎兵を率いて精力的に活躍していましたが、この攻囲戦の最中に急な病を得て居城に運ばれ、そのまますぐに亡くなっています。
余波
オランダ軍は2000人以上が戦死、捕虜は3000人、すべての大砲と輸送用小型船に加え、大量の物資も差し押さえられました。カロ側に居た軍に、実に8割以上の損害が出ている計算になります。逆にスペイン軍の損害は、死傷者すべて合わせても1000人に満たないものでした。1日で決着のつく野戦としては、1578年の「ジャンブルーの戦い」に次ぐ規模の大きな損害であり、軍制改革後としては文句なしに群を抜いた敗戦です。
なお、冒頭では対比上ジャンブルーの指揮官をドン・ファンとしましたが、彼はどちらかというと名目上の総司令で、実際の立役者はこれがオランダデビュー戦のパルマ公ファルネーゼです。もっとも、パルマ公もフェリペ二世の甥なので、一級の王族であることに変わりありません。
おそらくこの戦いが八十年戦争で最後の野戦となりますが、軍制改革以降の数少ない野戦を比較すると、「川をはさんで軍を二分」した戦いでもれなく失敗しているように思われます。単純に半分の人数で相手の全軍を相手にする可能性があるわけですから、これはもっともなことです。が、逆にいえば、各野戦のスペイン側の指揮官が特に有能な司令官であり、オランダ軍のこの隙をうまく好機として捕らえることができたため、ということもできます。
フレデリク=ヘンドリクは未だ枢機卿王子よりも兵力では勝っていましたが、このままアントウェルペン攻囲を続けるのは得策ではないと考え、ターゲットを変えてクレーフェ公領に向かいます。途中ヘンドリク=カシミールと合流し、16000の兵を用いてゲルダーンの街の攻囲をはじめたフレデリク=ヘンドリクでしたが、サン=トメールでフランス軍を撃退したピッコロミーニ元帥の軍が駆けつけ、また、その後到着したフェルナンド枢機卿がフレデリク=ヘンドリク得意の環状防衛線の突破に成功したため、こちらも諦めて引き上げざるを得ませんでした。
結局1638年は、オランダ・フランス双方にとって、全く成果なく終わることになりました。
リファレンス
- Guthrie, W.P., The Later Thirty Years War, 2003
- Leon, F.G. de, The Road to Rocroi, 2009
- Wilson, “Thirty Years War”
- Prinsterer, “Archives”
- Picart, “Memoires”