ヨハネス・アイテンボハールト Johannes Uyttenbogaert

Rembrandt Harmensz. van Rijn - Portret van Johannes Wtenbogaert (1557-1644), Remonstrants predikant - Google Art Project

Rembrandt (1633) In Wikimedia Commons

  • アルミニウス派牧師、オランイェ家宮廷牧師
  • 生年: 1557/2/11 ユトレヒト(蘭)
  • 没年/埋葬地: 1644/9/4 ハーグ(蘭)

生涯

1578年にカトリックからカルヴァン派に改宗したのち、1584年ユトレヒトで牧師となりました。過去に一時期ナッサウ伯ヤン六世に仕えていたことが縁で、1591年からハーグでナッサウ家の宮廷牧師となります。彼をハーグに招聘したのはナッサウ伯マウリッツですが、それ以上に、オランイェ公ウィレムの未亡人ルイーズ・ド・コリニーや、ヤン六世の長男ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクの絶大な信頼を受けました。以来、オルデンバルネフェルトやグロティウス等とも親交を結ぶようになります。

もともとアルミニウスの信条に傾倒していましたが、1610年、アルミニウスの死後にアルミニウス派・ホマルス派の対立が激化すると、アルミニウス派の指導者のひとりとして振舞うようになりました。1617年、マウリッツは「毎週欠かさず出席していたアイテンボハールトのミサを欠席し、ホマルス派のミサに参加する」という行為をもって、自らがホマルス派に属していることを示しました。(が、義母のルイーズ・ド・コリニーと弟のフレデリク=ヘンドリクには、アイテンボハールトのミサに出席しつづけることを許しています)。より事態が緊迫しはじめた1618年、身辺に危険が及んでいると判断したアイテンボハールトは、自らアントウェルペンに亡命します。その後すぐにドルトレヒトで宗教会議が催され、アルミニウス派の教義は退けられることとなりました。

1625年にマウリッツが没し、次の州総督フレデリク=ヘンドリクはアルミニウス派牧師たちへの締め付けを緩めたため、1626年にアイテンボハールトもハーグへ帰国することができました。とはいえオランイェ=ナッサウ家との関係は昔と同じというわけにはいかず、フレデリク=ヘンドリクもいずれの党派にも明確な支持を示すことはありませんでした。帰国後のアイテンボハールトは、亡命前のような指導的な活動はせず、細々とした布教や著作活動などで余生を過ごしたようです。

リファレンス

  • Motley, “Life and Death”
  • BWN
  • NNBW