- 著述家、外交官、秘書官、シント=アルデホンデ卿 Heer van Sint-Aldegonde
- 生年: 1540 ブリュッセル(白)
- 没年/埋葬地: 1598/12/15 レイデン/聖ペテロ教会(蘭)
生涯
もともとはサヴォイの家系の出ですが、ジュネーヴでカルヴァン派の教育を受けたおかげでオランダに渡り、「反乱」初期の貴族盟約などに兄のトゥールーズ卿ヤン・ファン・マルニクスとともに参加します。1567年、兄がオーステルヴェールの戦いで戦死し、危険を感じたフィリップスはしばらく亡命することになりました。その後1571年からオランイェ公ウィレム一世に仕えはじめます。一度スペイン側に虜囚の憂き目に遭いましたが、保釈されてからはウィレム一世の生涯にわたる腹心として、第一回ドルトレヒト自由連邦議会の開催、「ヘントの和平」の締結など、「反乱」の各段階で重要な役割を果たしました。
1583年、ウィレム一世より重要拠点であるアントウェルペンの知事職に任じられます。しかし翌年アントウェルペンはパルマ公ファルネーゼによる大規模攻囲戦に見舞われ、攻囲開始直後にはデルフトでウィレムも暗殺されてしまいます。指導者を欠いた状態での攻囲は長引き、結局1年以上後に開城することになりますが、知事として開城を決定する役目はシント=アルデホンデに課されました。
このアントウェルペン陥落およびスヘルデ川閉鎖ののち、シント=アルデホンデは公職を退き、二度と復帰しようとしませんでした。アントウェルペンの責任、ウィレムの死など理由はいろいろ考えられますが、アントウェルペン攻囲の際に、議員たちのあまりの非協力ぶりに嫌気がさしたからともいわれています。その後は領地のサウブルク城やレイデンに住みながら、聖書の翻訳などをして余生を過ごしたようです。
詩人でもあり、著述家。教育論の上梓、詩篇や聖書のオランダ語翻訳、現在のオランダ国歌の作詞で有名です。ほかに暗号解読の専門家でもあったようです。
リファレンス
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
- フリードリッヒ・シラー『オランダ独立史』岩波文庫、1949年
- University Leiden, “Personen“