パウ家5代を描いた架空肖像画。中央がレイニール、その左が父アドリアーン、右が息子アドリアーンです。レイニールとアドリアーンの親子は、それぞれアムステルダムや共和国に影響を与える立場にありながらも、宗教派閥や政治的見解を若干異にしています。
レイニール・パウ Reinier Pauw
- 政治家、レヘント、アムステルダム市長 (1605-1620の間に述べ8回)
- 生年: 1564/7/29 アムステルダム(蘭)
- 没年/埋葬地: 1636/2/19 アムステルダム(蘭)/旧教会
生涯
レイニールの父アドリアーンは裕福な商人で、アムステルダム市長や法律顧問も務めた有力者です。レイニールも父の死後同様に要職につきました。1605年から1620年の間に8回、アムステルダム市長に選出されています。
レイニールはホラント州・しかもアムステルダムのレヘントとしてはめずらしい、厳格派および主戦派の立場をとっていました。ちょうど市長職にあった1609年には十二年休戦条約に反対を表明し、この頃からオルデンバルネフェルトとは対立関係となっていきました。同じく市長職にあった1618-1619年のクーデター期には、ナッサウ伯マウリッツを支援し、オルデンバルネフェルトやグロティウスを裁く法廷のメンバーも務めました。オルデンバルネフェルトらホラント州の穏健派レヘントたちがこの政争に敗れたのは、厳格派かつオランイェ派であるこのレイニールが、ちょうどこの時期アムステルダム市政を牛耳っていたからという一因もあるかもしれません。
レイニールのこの立場はアムステルダム内での孤立を呼び、1620年代以降に市長に選出されることはなくなりました。反面、1622年には英国王ジェームズ一世と仏国王ルイ十三世から相次いで騎士に序され、また、デンマーク国王クリスチャン四世から大使に推挙されるなど、逆に王侯からの栄誉を得ています。
1594年の遠国会社(オランダ東インド会社の前身)の頃から対新世界・対アジア貿易をすすめ、オランダ東インド会社の設立の中心メンバーでもありました。市長職にあった1613年には第三次アムステルダム拡張政策をすすめ、アムステルダムの街としての発展にも寄与しました。息子が2人。長男アドリアーンはホラント州法律顧問、次男ミヒールは西インド会社役員となり、レイニールの失脚後にもパウ家の威信と経済力を高めています。
リファレンス
- Motley, “Life and Death”
- “NNBW“
アドリアーン・パウ Adriaan Pauw
- 政治家、レヘント、法律顧問 Raadpensionaris(1631-1636/1652-1653)、ヘームステーデ卿 Heer van Heemstede, Bennebroek, Nieuwerkerk etc.
- 生年: 1585/11/1 アムステルダム(蘭)
- 没年: 1653/2/21 アムステルダム(蘭)
生涯
アムステルダム市長を歴任したレイニール・パウの長男(祖父と同名)。父レイニールが市長職にあった1611年から1627年までアムステルダムの法律顧問を務めています。1631年~36年と1651年~1653年の二度、ヤーコプ・カッツと入れ違いでホラント州の法律顧問ともなりました。
父レイニールとは若干政治的立場を異にしています。厳格派だった父とは違い、アドリアーンはホラント州の多くのレヘント同様に穏健派に属しているとみなされていました。アドリアーン自身も、ホラント州やアムステルダム市の経済にダメージとなる戦争を終わらせたいと考え、スペインや南ネーデルランド執政府との和平を模索していました。オランイェ公フレデリク=ヘンドリクは逆にこれを利用して、スペインと対抗するための蘭仏同盟の締結をアドリアーンに命じたため、アドリアーンはホラント州法律顧問をいったん辞してフランスに派遣されることになってしまいます。フランスから何度か、この役目を解いて欲しいと懇願する書簡も送ってきています。
その10年後、ミュンスターの和約交渉の席で、非公式ながら共和国の代表者として、アドリアーンはスペインとの和平交渉をすすめることになりました。その功もあって第一次無州総督時代に入った1651年、再度ホラント州法律顧問となったものの、英蘭戦争の開戦に反対したことをきっかけに、わずか2年でその職をヤン・デ・ウィットに譲ることになります。
1620年にアドリアーンはヘームステーデの土地を購入して、ヘームステーデ卿と称するようになりました。アドリアーンはこの屋敷を収集用として建てたのですが、絵画や美術品ではなく、武器や書物を集めたようです。また、広大な庭園には高価なチューリップも栽培していました。