ドルトレヒト信仰基準 (1619) In Wikimedia Commons
1610年の休戦期に激しくなったオランダ国内の宗教論争において、
- 厳格派
- ホマルス派
- 反レモンストラント派
と呼ばれる側の牧師や神学者です。
リファレンス
- 1911 Encyclopædia Britannica Gomarus
- “ADB” Gomorus
- “BWN” Polyander
- “ADB” Walaeus
- “BWN” Rosaeus
- “ADB” Bogerman
- “BWN” Voetius
- Motley, “Life and Death”
フランシスクス・ホマルス Franciscus Gomarus
Unknown (17th century) In Wikimedia Commons
- 神学者、レイデン大学教授、フロニンゲン大学教授
- 生年: 1563/1/30 ブリュージュ(白)
- 没年/埋葬地: 1641/1/11 フロニンゲン(蘭)/マルティン教会
生涯
ブリュージュ出身で、「反乱」の激化に伴い北ネーデルラントへ亡命。ハイデルベルクで学問を修めた後、1594年にレイデン大学の教授となりました。1604年からアルミニウスと宗教論争を繰り広げることになりますが、アルミニウスの死の翌年の1610年にレイデン大学は辞職しています。ミデルブルフで布教活動をおこなった後、1618年にはフロニンゲン大学に教授として招聘されました。厳格派として知られたナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクの招きと思われます。
ヨハネス=ポリアンデル・ファン・デン=ケルクホーフェン Johannes Polyander van den Kerckhoven
Mierevelt, Michiel Jansz. van (17th century) In Wikimedia Commons
- 神学者、レイデン大学教授
- 生年: 1568/3/28 メッツ(仏)
- 没年/埋葬地: 1646/2/4 レイデン(蘭)/ピーテルス教会
生涯
ハイデルベルクやジュネーヴでカルヴァン派の教義を学んだ後、1611年から辞任したホマルスの後任としてレイデン大学に招かれます。厳格派ではありましたが、ホマルスを中心とした急進派とは一線を画し、両派閥および教会と政治の融和をめざす方向でした。が、最終的にドルトレヒト宗教会議で規定された「ドルトレヒト信仰基準」は彼の名で監修されています。
同名の息子は1627年に購入によってヘーンフリート領主と称し、神学者ではなく外交官の道を進んで、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの私設外交官として活躍しました。ウィレム二世と英王女メアリとの婚姻を成功させた外交官団のひとりでもあります。
アントニウス・ワラエウス Antonius Walaeus
David Bailly (1636) In Wikimedia Commons
- 神学者、ホマルス派牧師
- 生年: 1573/10 ヘント(白)
- 没年: 1639/7/3 レイデン(蘭)
生涯
レイデン、ジュネーヴ、バーゼルで学んだ後、ミデルブルフで牧師をしていました。父親はかつてオランイェ公ウィレム一世の支持者だった人物です。
宗教論争が始まった当初、ワラエウスはグロティウスやアイテンボハールトなど、アルミニウス派の人物とも個人的な友好を保っていました。しかし徐々にその思想が過激化していき、ドルトレヒト信仰基準の策定の中心人物にまでなりました。オランイェ公マウリッツのクーデター時に逮捕されたオルデンバルネフェルトやグロティウスの裁判でも、ワラエウスが裁判官のひとりとしてその罰を決定しています。(かつての親交を理由にグロティウスの罪一等を減じたのも彼の裁量らしいです)。オルデンバルネフェルトの処刑時にはマウリッツの代理人として立ち会いました。
ドルトレヒト宗教会議ののちは、オランダ語訳聖書の翻訳にもかかわりました。また、1621年に設立されたオランダ西インド会社の神学教育役をも務め、宣教師教育にも携わっています。
ヘンリクス・ロサエウス Henricus Rosaeus
- ホマルス派牧師
- 生年: 1575頃(蘭)
- 没年: ?
生涯
オルデンバルネフェルトの友人でもあるクレメンス・ロサエウス牧師の息子のひとりで、同じく牧師であり、当初はアルミニウス派に属していました。はじめはドイツ、後にハーグで、宮廷牧師アイテンボハールトの口利きにより公職に就きます。1615年、ロサエウスがホマルス派に改宗すると、アイテンボハールトはハーグでの彼の職を罷免しました。この後ロサエウスはハーグ郊外のレイスヴェイクで、「泥乞食」を自称する厳格派たちに説教を行うようになります。ナッサウ伯マウリッツのクーデター後、ハーグへ帰還し、マウリッツの保護のもとに置かれることになります。
ヨハネス・ボーへルマン Johannes Bogerman
unknown (17th century) In Wikimedia Commons
- ホマルス派牧師、フラネケル大学神学教授
- 生年: 1576 ウープレヴァルト(独)
- 没年: 1637 ?
宗教論争期の神学者で、ホマルス派の急先鋒。1618年-1619年のドルトレヒト公会議の議長でもあり、オランダ語訳聖書の翻訳の責任者でもあります。ナッサウ伯マウリッツの臨終にも立ち会いました。育ちもフリースラントで、ナッサウ伯ウィレム=ローデウェイクのもとでも働いており、1633年からフラネケル大学の神学教授もつとめました。
ドルトレヒト宗教会議でも主導的な役割を務め、1633年には旧約聖書のオランダ語訳にも取り組んでいます。
ヒスベルトゥス・フーティウス Gisbertus Voetius
Nicolaes Maes (1670s) In Wikimedia Commons
- ホマルス派牧師、神学者、ユトレヒト大学教授
- 生年: 1589/3/3 フースデン(蘭)
- 没年/埋葬地: 1676/11/1 ユトレヒト(蘭)/カタレイネ教会
生涯
レイデンで学んだのち、ドルトレヒト宗教会議には最年少のホマルス派牧師として参加。1634年にユトレヒト大学の教授となります。
のちのルネ・デカルトとの論争「ユトレヒト事件」のほうが有名です。フーティウスとその弟子マルティヌス・スホークによるデカルトとの論争は裁判沙汰にまで発展し、3年がかりの長丁場になった挙句、その後の「レイデン事件」(デカルトとレイデン大学の神学者たちとの論争)の原因ともなりました。