いずれも「反乱」中期から、オランダ軍(当時反乱軍)で戦った、もとは商人出身の古参の軍人兄弟。ほかにも兄弟は居たようなのですが、知られているのはこの兄(次男?)のパウルスと末弟のマルセリスの2人です。若年期こそ軍事的な失敗を繰り返したものの、軍制改革を経て、騎兵の司令官として徐々に名を挙げていくようになりました。軍政改革初期から中期にかけ、オランダ出身の将校の中でも筆頭は彼ら兄弟です。(その他司令官はほとんどがナッサウ伯か外国人)。
1576年、2人は揃って義勇兵としてオランイェ公ウィレムの軍に帰参し、5年後には騎兵中隊を与えられます。当初弟のマルセリスが中隊長とされましたが、マルセリスは兄パウルスにその座を譲りました。ウィレムの許可を得て、この頃からベルヘン=オプ=ゾームを拠点とします。その後一時期フランスのビロン大元帥の援軍として戦ったこともありました。
2人ともとくにその勇猛さで有名で、奇襲などの危険を伴う軍事作戦には常にそのメンバーとして名を連ねています。また、両名ともベルヘン=オプ=ゾームの市参事および後に知事を務め、同地に葬られています。
ちなみに、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの秘書官コンスタイテイン・ホイヘンスはブレダ系バックス家の出自で、父が彼ら兄弟と大変仲が良かったとしていますが、「バックス兄弟は自分たちスヘルトヘンボス系バックス家とブレダ系バックス家はもとは同じ起源だと言っていたけれど、何を根拠にそう言っていたかまではわからない」と書いています。
リファレンス
- Motley, “United Netherlands”
- “BWN“
パウルス・バックス Paulus Bax
- 軍人、ベルヘン=オプ=ゾーム知事 Gouverneur van Bergen-op-Zoom
- 生年: 1550 スヘルトヘンボス(蘭)
- 没年/埋葬地: 1606/春 ベルヘン=オプ=ゾーム/大教会(蘭)
生涯
軍事キャリアの前半は上記のとおり。1588年、パルマ公ファルネーゼによるベルヘン=オプ=ゾーム攻囲の際、揃って市参事だった兄弟は騎兵を率いて街から撃って出、スペイン軍を撃退し、一躍有名になりました。1592年、前任のイングランド知事の退任に伴い、パウルスが一時的に(のち恒久的に)知事の座を得ます。
パウルスは1585年のパルマ公によるアントウェルペン攻囲の際に手を負傷しており、のちにおそらく使えなくなったか切り落として義手となったかしたと思われます。そのこともあり、知事就任以降はベルヘン=オプ=ゾームに留まり知事職に専念したようです。しかし1596年と1605年、オーストリア大公アルプレヒトによるベルヘン=オプ=ゾーム奪取の試みの際には、いずれも自ら先頭に立って撃退しています。
マルセリス・バックス Marcelis Bax
- 軍人、ベルヘン=オプ=ゾーム知事 Gouverneur van Bergen-op-Zoom
- 生年: 1556 スヘルトヘンボス(蘭)
- 没年/埋葬地: 1617/4 ベルヘン=オプ=ゾーム/大教会(蘭)
生涯
軍事キャリアの前半は上記のとおり。1588年、パルマ公ファルネーゼによるベルヘン=オプ=ゾーム攻囲の際、揃って市参事だった兄弟は騎兵を率いて街から撃って出、スペイン軍を撃退し、一躍有名になりました。1590年代「マウリッツの十年」のほとんどの戦闘に騎兵を率いて参加していますが、中でも目覚しい働きをしたのが1597年のトゥルンハウトの戦いで、この後すぐにこの戦いの功績により騎兵少将の地位を得ています。
1600年代は、ニーウポールトの戦いを皮切りに、はじめ騎兵大将ナッサウ伯ローデウェイク=ヒュンテル、彼の病死後はナッサウ伯フレデリク=ヘンドリクのもとで副官として補佐を務めました。1606年兄パウルスの死後からベルヘン=オプ=ゾーム知事を引き継ぎますが、兄とは違って軍務を続け、十二年休戦条約後に活動の場をなくしてはじめて知事の実務を務めたと思われます。