- オランイェ公の侍従長 eerste kamerheer、オランイェ公妃の執事 hofmeester
- 生年: 1602 ドロネーオ(伊)
- 没年/埋葬地: 1668/10/8 ジュネーヴ/サン・ピエール大聖堂(スイス)
生涯
イタリア生まれ、軍人経由の執事で思想家…と異色の経歴の持ち主。イタリア名はアルフォンソ・パロッティ。肖像画が出てこなかったことが残念です。
ピエモンテでプロテスタントの両親のもとに生まれ、1620年、父親が亡くなると母親はサヴォイア公の迫害を恐れ、子供たちを連れジュネーヴに亡命しました。翌年、ほぼ成人になっていたアルフォンスと兄のジャン=バプティスタは、志願兵として、ちょうどスペインとの休戦が切れ戦いを再開したオランダへ向かいます。
1629年のスヘルトヘンボスで右腕を失ったアルフォンスは、それでも軍人としてキャリアを積んでいきました。1632年には戦死したマルケット卿(ダニエル・デ・ハルタイングの3人の息子のうち1人、おそらく長男のウィレム)の代理でマルケット連隊を率い、翌年そのままその地位を正式に譲られました。兄のジャン=バプティスタは1637年に一足早く退役し、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの侍従長となったようです。アルフォンスは1638年にゾルムス伯ヨハン=アルプレヒト(公妃アマーリアの兄)の随員となりましたが、その直後のカロの戦いで捕虜となってしまいました。
兄が亡くなった1642年、その跡を継いでフレデリク=ヘンドリクの侍従長となります。しかし要塞建築についての豊富な知識を買われ、その後もサス=ファン=ヘント攻囲戦やフランス戦線などに投入され、現役将校と兼業しました。フレデリク=ヘンドリクの死後、同時に退役を決意し、公妃アマーリアより執事に任じられます。1659年頃、それまでにも何度もアドバイザーとして訪れていたジュネーヴの強い要請でジュネーヴに招聘され、そこで亡くなっています。アルフォンスの弟ヴァンサンと姉妹たちは母親の亡命以降ジュネーヴに住んでいたと思われ、アルフォンスは頻繁に彼らに生活費を仕送りしていました。
アルフォンスが有名なのはこれらの功績よりも、哲学者デカルトとの関係です。もともとアルフォンスはオランイェ公に近い位置にいたため、その秘書であるコンスタンテイン・ホイヘンス等とも親しく、文人たちとの交流もありました。1637年の日付のある書簡がデカルトとの文通の最初のものとされており、デカルトの難解な数学を最初に理解した人物ともされています。さらに、ハーグに亡命生活を送る元ボヘミア王(元プファルツ選帝侯)一家とも面識があり、その長女であるエリーザベトとデカルトの間の知的交流を取り持ったのもアルフォンスです。(『デカルト=エリザベト往復書簡』では、エリーザベトが初めてデカルトに宛てた手紙の中に、「パロッティ氏」の勧めによって書いているという記載があります)。またデカルトがユトレヒトの神学者たちから非難を受けた、「ユトレヒト事件(1642-46)」の際にも、アルフォンスがオランイェ公に助力を依頼しています。
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。
- “NNBW“