- リンブルフ伯・メールス伯 Graaf van Limburg en Meurs、ユトレヒト/オーフェルエイセル/ヘルデルラント州総督 Stadhouder van Utrecht, Overijssel en Gelre
- 生年: 1545
- 没年: 1589/10/18 アルンヘム(蘭)
生涯
叔父ヘルマン・ファン・ニーウェナールの妻がウィレム一世の腹違いの姉、という、親戚というにはかなり遠い感じのするオランイェ公ウィレム一世の甥。父が早くに亡くなると、このヘルマンに育てられました。のち、ヘルマンの妹であるアンナ=ワルブルガ(アドルフにとっては叔母)と結婚し、ヘルマンの死後メールス伯を相続します。
ケルン選帝侯ゲープハルトがカルヴァン派に改宗したことが原因で勃発したケルン戦争で、ニーウェナールはプロテスタント陣営を支援しました。が、そのためにドイツでの地位を失うことになってしまい、オランダに亡命します。
オランダではニーウェナールにとってタナボタが続きました。1583年、ウィレム四世・ファン・デン=ベルフが、スペインのスパイであるという陰謀のかどで逮捕され失脚しました。1584年にはオランイェ公ウィレム一世が暗殺されました。そこで空いたポストであるユトレヒト/オーフェルエイセル/ヘルデルラントの州総督がニーウェナールに回ってきました。
しかし司令官としての能力はあまり高くなかったようです。かろうじてアルンヘムは死守したものの、いくつかの街を失いました。1589年、新しい大砲の試し撃ちをしていたところ、砲が暴発し死亡しました。
リファレンス
メールス女伯アンナ=ワルブルガ・ファン・ニーウェナール Anna Walburga van Nieuwenaar
- メールス女伯 Graafin van Meurs
- 生年: 1522
- 没年: 1600/5/15 メールス(独)
生涯
メールス伯ヘルマンの妹。最初の結婚相手はホールネ伯フィリップ・ド・モンモランシー。ホールネ伯がエフモント伯とともにアルバ公に斬首されると、その後甥にあたるアドルフ・ファン・ニーウェナールと再婚しました。メールスの継承権を持っていたため、兄の死後いったん夫アドルフが継いだメールスを、さらに夫の死後ワルブルガが女伯として継承することになりました。
しかし、彼女の継承した領地の大部分はスペインの手にあり、ワルブルガ自身も亡命の身にありました。1594年11月、子供の居ないワルブルガは、自分の死後の継承者を遠い親戚筋にあたるナッサウ伯マウリッツに定めることに同意します。マウリッツが1597年にメールスを奪還したため、その後はメールスで余生を過ごしています。