対戦国 | オランダ | スペイン |
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勝 敗 | × | ○ |
参加者 | オランイェ公フレデリク=ヘンドリク ナッサウ=ディーツ伯ヘンドリク=カシミール ナッサウ=ディーツ伯ウィレム=フレデリク |
(スペイン軍守備隊) |
夫亡き後単身ドイツに渡り、年若い長男ヘンドリク=カシミールの代理として、三十年戦争で荒廃した領地を切り盛りするゾフィー=ヘートヴィヒ。政治的改宗をも敢行した彼女にとって、完全アウェイでの毎日に、長男から定期的に送られるオランダ情勢を知らせる手紙は、ひとつの息抜きだったに違いない。しかしよくある戦況報告の次に届いた手紙は、いつもの長男からのものではなくなぜか次男からのものだった。
親愛なるお姉様、どうか苦しみにあまり身を任せないでください。どうかあなたまで健康を損ねないでください。そして、私への愛に免じて、どうかお気を確かに持ってください。私も同じように悲しいのです。あなたの弟であるクリスティアンを、次にあなたの長男ヘンドリク=カシミールを、そしてそれ以上にあなたを愛してきたからです。
ボヘミア王妃エリザベス・ステュアート/”Archives”
はじめに
本題に入る前に。冬王一家がハーグに亡命してきた1621年以来、彼らとナッサウ一族とが一緒に描かれた集団肖像画が多作されています。オランイェ公フレデリク=ヘンドリク、ナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミール、プファルツ選帝侯フリードリヒ五世(ボヘミア冬王)だけでなく、彼らの妻アマーリア、ゾフィー=ヘートヴィヒ、エリザベスはそれぞれ血縁関係でもあり、家族ぐるみで非常に親しくしていました。子供たちも兄弟同様に育っています。このサイト内ではお馴染みではありますが、再度関係をまとめてみます。
- オランイェ公フレデリク=ヘンドリク …エルンスト=カシミールは父方の従兄。フリードリヒ五世は父方の甥。妻アマーリアは母方の従兄の長女。
- ナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミール …フレデリク=ヘンドリクは父方の従弟。フリードリヒ五世は父方の従妹の長男。アマーリアは父方の従兄の長女。
- プファルツ選帝侯フリードリヒ五世 …フレデリク=ヘンドリクは母方の叔父。
- オランイェ公妃アマーリア …夫フレデリク=ヘンドリクとエルンスト=カシミールはいずれも父の母方の従兄。
- ナッサウ=ディーツ伯妃ゾフィー=ヘートヴィヒ …エリザベスは母方の従妹。デンマーク国王クリスチャン四世は叔父。
- プファルツ選帝侯妃エリザベス …ゾフィー=ヘートヴィヒは母方の従姉。デンマーク国王クリスチャン四世は叔父。
エルンスト=カシミールとフリードリヒ五世はこの版画の刷られた5年後の1632年にいずれも死亡していますが、女性陣はこの記事の1640年時点では全員健在です。この版画から13年経って世代はエルンスト=カシミールの息子たちの時代に移っています。中央エルンスト=カシミールの右にいるちょい気障な感じの少年が長男のヘンドリク=カシミールです。ここから13年後、この攻囲戦の時点では28歳に成長しています。
この版画には左上に、オランイェ公ウィレム1世とマウリッツ公が銅像のかたちで登場しています。故人を表現するのによく見られる手法です。その下の乳母が連れている乳児がウィレム二世です。また、中央のエルンスト=カシミールの左隣の若者は、マウリッツの庶子(次男)ローデウェイクです。1627年には庶子(長男)のウィレムがフロールで戦死しているので、この版画はフロール攻囲戦以降の時点を切り取ったものと思われます。
経緯
ブレダの奪還(1637年)以降のオランイェ公フレデリク=ヘンドリクは、一貫してアントウェルペン奪還を次の目標としていました。1638年、直接アントウェルペンを攻めようとしたカロの戦いで大敗した反省からか、1640年は逆に外堀から埋める手段に切り替えたと思われ、まずは近隣のフルストが足掛かりの地として選ばれました。フルストは1596年に、当時南ネーデルランド執政になったばかりのアルプレヒト大公が勢いに応じて奪還、それから半世紀近くスペイン側の手にありました。
この長いスペイン支配の間に、スペイン側は「洪水線」を整備しています。もとはアレサンドロ・ファルネーゼが1583年にアントウェルペン攻囲戦を見越して建設を始めた洪水線が最初です。1591年にマウリッツ公がフルストを奪取してから1596年まで、その後は数度のアントウェルペン奪還の試みの最中に、オランダ側も対抗するように洪水線や砦を整備しました。1640年時点ではほとんどがスペイン側の手にあります。競うように建設したこの洪水線は「オランダ・スペイン洪水線 Staats-spaanse Linie」とも呼ばれます。スペイン側の砦は聖人の名前、オランダ側は食べ物の名前だったり、だいぶ名づけの仕方が違うようです。
フルストの街を攻囲する前に、まずはこれらの砦の占領が試みられました。
戦闘
ヘンドリク=カシミールは、最初にフルストの北東に位置するメールスハンス砦を攻めることにします。砦のスペイン人守備隊は、ヘンドリク=カシミールの隊に比べれば格段に人数が少なく、このままでは簡単に占領されてしまうと考え、一計を案じることにしました。トランペットの吹ける者を集めて堤防に沿って一列に並べ、それぞれの吹き手に別な曲を吹かせました。当時は、部隊ごとに違うフレーズを用いるのが慣例でした。ヘンドリク=カシミールはまんまとその策略に乗ってしまい、相手方に複数の援軍が到着したと勘違いして、そのまま逃走しました。
それを聞いた総司令官のフレデリク=ヘンドリクは激怒します。トランペットの策略はスペイン側が過去に何度も使ってきたありふれた計略であり、フレデリク=ヘンドリク自らがそのおかげで過去にひどい目に遭ったことがありました。フレデリク=ヘンドリクはヘンドリク=カシミールに、この失態の穴埋めとして別な砦を奪ってくるようきつく命じます。次に標的とされたのは、フルストの街を挟んでちょうどメールスハンス砦の反対側、北西にあるナッサウ砦です。
結果的には、7月4日に実施されたこの襲撃も失敗しました。しかもヘンドリク=カシミールは腰に銃弾を受けて落馬し、しばらく戦場に放置されたままとなりました。その後助け出されて手当てを受け、一時的に回復します。
余波
母上、先ほど手紙をしたためたわずか1時間後、世界で最も不幸な出来事が起こってしまいました。兄上が、その肉体の力をすべて失い、精神が身体から離れ、世界で誰もが成しえなかったほどにキリスト教徒として亡くなられたのです。母上に長い間お会いしていなかったことを除いて、兄上に心残りはありませんでした。そのことだけが、苦痛の中で慰めにならなかったと兄上は言い残されました。せめて神が、精霊を遣わし母上をこの苦難から救い出して下さるよう望みます。そして母上が兄上に抱いていた愛情や好意と同様に、この私も母上の従順な息子でありしもべであることをどうか否定なさらないでほしいという、私の願いと祈りが叶うよう望みます。母上が私に戒めを遵守するようお望みならば、私は全力を尽くして生涯を全うするよう努めます。母上様へ、
あなたの非常に謙虚で従順なしもべ、息子であり従者であるウィレム=フレデリク。
聖アンナ砦より 1640年7月12日
ナッサウ=ディーツ伯ウィレム=フレデリク/”Archives”
ヘンドリク=カシミールは領地ディーツにいる母親のゾフィー=ヘートヴィヒに頻繁に手紙を書いていましたが、ナッサウ砦の襲撃の際に受けた傷についても、負傷したが問題ないと書き送っています。冒頭に挙げたエリザベスの手紙にも、「6月30日(旧暦表示・新暦だと7月10日)の手紙の後に従者にヘンドリク=カシミールの様子を見に行かせ(たら、その時は無事だったので)、回復したという良い知らせの返事を送ろうと思っていたのに」と書かれているので、当初は自他ともに深刻な傷だとは思っていなかったのでしょう。
しかしその直後の7月12日、容体の急変したヘンドリク=カシミールはスヘルデ河口近くの聖アンナ砦で死亡しました。弟のウィレム=フレデリクが最期を看取っており、上に全文を意訳したように、そのときの様子や兄の最期の言葉を母親に伝えています。この記事にはあまり視覚的刺激の強くない遺品を選んで載せましたが、ほかにも肌着、骨片2片、銃弾1発がアムステルダム国立博物館に収蔵されており、ここに挙げたシャツ(もそれなりに血で汚れていますが)の下に着ていた肌着はまさに「血染め」といって良いほど血痕がはっきり残っています。
閲覧注意: ヘンドリク=カシミール着用の白のリネンシャツ Rijksmuseum
ウィレム=フレデリクやエリザベスのほかにも、アマーリアから、そしてフレデリク=ヘンドリクからゾフィー=ヘートヴィヒに送られた書簡が現存しています。感傷的なエリザベスの書簡に比べると、アマーリアとフレデリク=ヘンドリクの書簡は一見して型にはまったお悔み状のような内容ですが、実際のフレデリク=ヘンドリクのショックと後悔は相当なものだったようです。自身の発言が契機になった死といっても過言ではないため、その自責の念は察するに余りあります。
ナッサウ=ディーツ伯領、フリースラント州総督、そしてドイツ騎士団でのポジションは、ただ一人残った弟のウィレム=フレデリクが継承しました。ゾフィー=ヘートヴィヒは9人の子を産みましたが、7人が夭逝、成人したのは2人だけでした。ウィレム=フレデリクの手紙もそのことを意識した内容となっています。ゾフィー=ヘートヴィヒはしばらくウィレム=フレデリクの名でディーツの摂政を続けましたが、ヘンドリク=カシミールの戦死からわずか1年半後にオランダのアルンヘムで亡くなっています。
この年フレデリク=ヘンドリクはフルストの攻囲を諦めました。次にフルストが攻囲されるのは5年後のこととなります。
個人的に驚いたのはエリザベスの書簡に、14年も前に病死したゾフィー=ヘートヴィヒの弟クリスティアンについて言及されていたことです。クリスティアンといえば、エリザベスの手袋を拾ったエピソードやら、エリザベスの名前を軍旗に掲げてティリー伯の怒りを買ったとか、時代錯誤な騎士道精神のエピソード満載の略奪系傭兵隊長ですが、そういえば従弟だったんだなあということで、彼女の記憶にあるのは当然かもしれません。それと同列に扱われているヘンドリク=カシミールは気の毒というべきか、本当に同類だったのか…。少なくとも、ヘンドリク=カシミールについても、クリスティアン同様腕を怪我して肩帯で左手を吊っている絵画が残されています。
リファレンス
- Prinsterer, “Archives”
- Picart, “Memoires”
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』、刀水書房、2003年