対戦国 | オランダ イングランド フランス スコットランド |
スペイン |
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勝 敗 | ○ | × |
参加者 | オランイェ公フレデリク=ヘンドリク ナッサウ=ヒルヒェンバッハ伯ウィレム ブレーデローデ卿ヨハン=ヴォルフェルト ナッサウ=ジーゲン伯ハインリヒ ナッサウ=ベフェルウェールト伯ローデウェイク リンブルク=シュティルム伯ヘルマン一世オットー ゾルムス=ブラウンフェルス伯ヨハン二世アルプレヒト ドートリーヴ侯フランソワ・ド・ローベスピーヌ モーリス・ド・コリニー=シャティヨン デストラーデ伯ゴドフロワ=ルイ ホールネ伯ヨハン=ベルギクス? ウォルター・ファン・ブリーネン |
ド・フォンテーヌ伯ポール=ベルナール トマス・プレストン |
かつてオランイェ公フレデリク=ヘンドリクの亡き兄マウリッツが要塞化した、石造りのヘネプ城。枢機卿王子フェルナンドはその城に、さらに三重の水濠をもつ要塞建築を施した。枢機卿王子が道義に反して城を奪った、と詰りつつも、フレデリク=ヘンドリクの「非常に美しいカウンタースカープ une fort belle contrescarpe」との表現は、その完成度に魅了された彼の最大級の賛辞にほかならない。
正面に城壁と広い水路を備えたカウンタースカープが聳えており、その前面には完全に対となるカウンタースカープが建設された。さらにニールス川の対岸には湿地に向けて、非常に美しいカウンタースカープを備えた大きな王冠堡もが整備されていた。
オランイェ公フレデリク=ヘンドリク/”Memoir”
はじめに
「ヘネプ攻囲戦」は、正確にいうと「ヘネプ城攻囲戦」です。ヘネプ城はマース川とその支流のニースル川の合流点に建つ石造りの城砦で、ヘネプの街はその3kmほど南東にあります。冒頭の地図(右が北なので街は城の左側に記載)でも、街の側は全くと言っていいほど防備がされていないことがわかります。
オランイェ公フレデリク=ヘンドリクが記録しているヘネプ城の城砦の描写は、この図に描かれている内容を正確に表しています。もとは川の合流地点に建てられたシンプルな砦でしたが、枢機卿王子フェルナンドが一大駐屯地へと拡張していました。ちなみにこの時、当のフェルナンドは北フランス戦線、エール=シュル=ラ=リスにいました。この年、戦場で病を得たフェルナンドは11月にブリュッセルで病死しています。
経緯
1602年に連邦共和国はヘネプ城を占領し、その後十二年休戦期に、この地域にはスペイン兵を配備しないよう、共和国・クレーフェ公(1614年以降はブランデンブルク選帝侯)・オーストリア大公アルプレヒト七世、の三者間で中立の合意が書面でなされていました。しかし1635年に枢機卿王子フェルナンドがシェンケンシャンツを脅かした際、彼はこれらの約定を反故にしてヘネプ城を乗っ取り、知事としてアイルランド人将校のトマス・プレストンを置いて、城を大規模な軍隊が駐屯できるレベルにまで強化しました。
シェンケンシャンツは越冬の攻囲戦の末オランダ側が奪還しましたが、1637年、フレデリク=ヘンドリクがブレダを攻囲している隙に、ヘネプ城以南のマース川沿いの街、ゲルダーン、フェンロー、ルールモントはすべて枢機卿王子に再占領されました。マース川の要所であるヘネプ城の重要性は高く、その奪還は最優先事項のひとつとなっていました。
1638年、1640年と、ゼーラント地域での攻囲が失敗に終わっていたのも、この年ヘネプ奪還が選ばれた理由かもしれません。6月7日、フレデリク=ヘンドリクは総勢19500人の軍を集めると、ヘネプ城の川向かいのウーフェルトに陣を敷きました。連邦議会の議員たちには、宿舎としてその近くの聖アガタ修道院があてがわれています。これらの地域を含み、マース川を中心に挟むように全周15kmにわたる環状攻囲線が建設され、2箇所の渡河地点は2人のナッサウ伯に任せられました。また、ヘネプ城に直接アプローチできる高台にはホールネ伯の陣が置かれました。
戦闘
6月28日以降、フレデリク=ヘンドリクの本陣と、川向こうのホールネ伯の陣からは日々砲撃が繰り返され、ヘネプ城を東西両側から攻めます。同時に歩兵は両渡河地点のキャンプから、マース川に沿って南北に塹壕を掘り進め、都合、四方からのアプローチが繰り返されました。キャンプのある両側のマース川渡河地点には計3本の舟橋、支流ニールス川はヘネプの街の東側に1本の舟橋が架けられて河川間の通行を容易にし、司令官本陣と、マース川南地点のヒルヒェンバッハ元帥の陣では、広い教練場まで設けられています。また、この絵では、川で釣りや洗濯をしていたり、馬を放牧したり、さらには飲み食いしたり遊んだり女性に追っかけられたり…と、少しのんびりした風景も描かれています。
ヘネプ城からは何度か襲撃が試みられましたが、すべて失敗しました。また、フェンローからスペインの部隊が二度援軍に訪れています。そのうち最初の襲撃はド・フォンテーヌ伯が率いたスペイン軍の援軍によるもので、環状攻囲線の外側に置かれたリンブルク=シュティルム伯の騎兵連隊のキャンプを強襲したものでした。これにはナッサウ=ベフェルウェールト伯が駆けつけ、辛くも撃退しています。また、版画上ではホールネ伯の陣の付近に騎兵との戦いが描かれているので、これが二回めの襲撃かもしれません。
7月6日、ヒルヒェンバッハ元帥の軍が南側のカウンタースカープに攻撃を仕掛けました。その際、ヒルヒェンバッハ元帥は腹部(胃の付近)をマスケット銃で撃たれます。周りの兵たちが急いでキャンプのベッドへ運ぼうとしたのを拒んで、弾は跳ね返ったため問題ないとして、ヒルヒェンバッハ元帥は結局作戦を最後まで敢行しました。
7月22日、北側のカウンタースカープにも塹壕が到達し、地雷を使うまでもなく角堡が占拠されました。
余波
ヘネプ城の守備隊は、地雷で強行突破される前に自ら開城交渉を申し出ました。7月27日にこれは受け入れられ、その2日後には守備隊と聖職者がフェンローに向けて撤退しました。オランダ軍は、自分たちの砲撃でヘネプ城の要塞をかなり損傷してしまったため、その修復には攻囲そのものと同じくらいの期間、約1か月を要しました。
どうやら地雷は、使わないに越したことはないものだったようです。攻められる側からすればもちろん死傷者が減ることがメリットですが、逆に使う側も、とくに経済的な事由で多用は避けられました。「使わずに済んだ」「キープしておけた」という表現がされることもあり、地雷そのものの製造にかかるコストも高額と推察されますが、このように壊してしまった後の整備にも手が取られるという意味と思われます。
攻囲戦中に負傷したヒルヒェンバッハ伯については、フレデリク=ヘンドリクも「マスケット銃の弾丸は打撲だったのが幸いした」と語っているように、即座に命に関わるものではありませんでした。しかしその後ヒルヒェンバッハ伯は傷の後遺症に苦しみ、1年後、ラインベルクで死亡してしまいます。元帥のポストはフレデリク=ヘンドリクの義弟、ブレーデローデ卿ヨハン=ヴォルフェルトに引き継がれることになります。
ヘネプ城守備隊長のトマス・プレストンはヘネプを去った後はスペイン軍には戻らず、アイルランドに帰国し、レンスター司令官としてアイルランド革命・その後のアイルランド同盟戦争を戦いました。
ちなみにこの年、この攻囲戦の直前の5月、総司令官フレデリク=ヘンドリクの長男ウィレム二世が14歳で、幼い9歳のイングランド王女メアリと結婚しました。オランイェ家の王朝的野心にとっては勝利ともいえる出来事でしたが、逆にオランダはイングランド内戦にも否応なく巻き込まれることになります。翌1642年はこのイングランド内戦に加え、フランスでもフレデリク=ヘンドリクの甥ブイヨン公モーリスが謀反を起こして逮捕、さらにリシュリュー枢機卿とルイ十三世の相次ぐ死など、外交上の重大事件が続きます。それが理由かどうかは不明ですが、1642年はとくに大きな軍事行動は行われていません。
リファレンス
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