対戦国 |
オランダ |
スペイン |
---|---|---|
勝 敗 | × | ○ |
参加者 | オランイェ公フレデリク=ヘンドリク ナッサウ=ディーツ伯ウィレム=フレデリク ナッサウ=ジーゲン伯ヨハン=マウリッツ ナッサウ=ジーゲン伯ハインリヒ ナッサウ=ベフェルウェールト伯ローデウェイク ヨハン=ヴォルフェルト・ファン・ブレーデローデ トゥアール公アンリ=シャルル・ド・トレモワイユ |
(スペイン人守備隊) |
5年前に失敗したフルストを、先年、オランダは見事なまでの手段で取り戻した。しかし議会はその直後、ミュンスターのテーブルに大使を派遣することを決定し、共和国の舵は和平に大きく振れる。1646年、既に自身も年老いたフレデリク=ヘンドリクは、最後の戦いとして、2つの重要な街に照準を定める。1つは、1584年の父ウィレムの暗殺と時を同じくしてパルマ公に奪われたアントウェルペン、そして2つめは、自らが1637年のブレダ攻略と引き換えに失ったフェンローだった。
フルスト奪還によって我々は、アントウェルペンまで徒歩で行ける、というアドバンテージを得たわけだ。
オランイェ公フレデリク=ヘンドリク/ Picart, “Memoires”
はじめに
1588年以降、共和国設立後のオランダにとって、「難攻不落」という名にふさわしい都市は、おそらくこの3つがベスト3に入るでしょう。
- スヘルトヘンボス
- アントウェルペン
- フェンロー
ほかにも所有権が頻繁に変わった都市としてはフロールやラインベルクも挙げられますが、上記の3都市はいずれもオランダ側の失敗の数が相当数になるものです。しかも、この3つの都市のすべてがその堅牢さの要因を異にしていて、さらに最終的にはそれぞれ別の道を辿ることになります。
- スヘルトヘンボス …攻めにくく守りやすい地理的要因。ナッサウ伯マウリッツによる5度の失敗ののち、1629年、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクの大規模環状包囲線と堤防決壊戦術および莫大な費用効果によって共和国がようやく占領。
- アントウェルペン …議会や商人による妨害等の政治的要因。マウリッツによる4度の失敗、フレデリク=ヘンドリクによるカロの大敗を含み、共和国の攻囲成功は一度も無い。
- フェンロー …カトリック市民の抵抗等の宗教的要因。マウリッツとフレデリク=ヘンドリクはそれぞれ一度失敗。1632年にいったん共和国が手にするものの、5年後にスペインに転向。すべての攻囲が数日内で終わっているのも特徴。
経緯
上に挙げた中でも、最も難攻不落の名にふさわしい都市はアントウェルペンといえるでしょう。パルマ公ファルネーゼでさえ、1584年から1年かがりで攻囲戦を行い、多大な困難と犠牲のもとに開城へと導きました。その後オランダ側からのアプローチは、小さなものまで入れると数え切れないほどおこなわれていますが、取ったり取られたりの他の街とは違って、ただの一度も攻囲が成功したことはありませんでした。
フェンローは、八十年戦争の中で幾度となく戦いの場所となった街のひとつで、オランイェ公ウィレム一世時代も数えると約9回の攻囲戦がおこなわれています。こちらはスペイン・オランダ間で所有権も移転していますが、ウィレム一世時代の1572年からこの攻囲戦までの74年の間、フェンローがオランダ共和国の手にあったのは、1579-1586年、1632-1637年のわずか12年間のみです。とくに直前の1637年の攻囲戦では、オランイェ公フレデリク=ヘンドリクがブレダを奪還しているその隙に、枢機卿王子フェルナンドによってスペインの手に落ちています。
1588年、マウリッツとウィレム=ローデウェイクが語っていたことばがあります。
川沿いのあらゆる要所、たとえば、エイセル川沿いのデフェンテルやズトフェン、ワール川沿いのネイメーヘン、マース川沿いのフラーフェ、フェンロー、マーストリヒト、そしてフロニンゲン。まずは1つ、そして次…というように川沿いの街を順に征服していけば、その「庭」の中にあるすべての小さな街は、補給路と糧食を絶たれて自滅するだろう。
Graaf, R. de, Oorlog, mijn arme schapen, 2004
この台詞から60年弱、ここに挙げられた7つの街に、1600年のニーウポールトの戦いの後に軍部が掲げた南部4都市、ラインベルク、スライス、フラーフェ、スヘルトヘンボスを加えた計10都市(フラーフェは重複)のうち、未だオランダの支配下にないのはフェンローただひとつです。
フェンローがターゲットとして選ばれたのはその理由だけではないとは思いますが、いずれにしても要衝であることに変わりなく、ユーリヒ領とクレーフェ領の狭間(スペイン領ヘルデルラント)にちょうど破れ目のように口を開けたかたちになっています。 アントウェルペンとフェンローは、地理的には遠くまったく違う場所ではありますが、このキャンペーンの期間自体が一連の流れのため、この記事ではまとめて扱うことにしました。
アントウェルペン攻囲戦
アクセルは1586年という早い段階から、フランドルで共和国が保持し続けた唯一の街です(アクセル占領)。翻ってフルストは、1596年にオーストリア大公アルプレヒトに奪われて以来長らくスペインの手にあり、アントウェルペンへのアプローチを困難にしていました。これをようやく奪還したのがつい前年の1645年のことです。アクセルとフルスト、この2つの街を拠点とできることに加え、1646年に入って同盟国フランスの対スペイン戦の状況が良かったことも、悲願のアントウェルペン奪取の絶好の好機と思われました。
フレデリク=ヘンドリクははじめ攻囲戦ではなく、アントウェルペンの街の幹部と独自の外交ルートで秘密裏に交渉を行い、無血開城も視野に入れていました。60年の長きに渡りカトリックであり続けた市に対し、信教の自由を保証したのです。が、連邦議会はそれを知ると、それは到底受け入れられないとしてその条件を反故にしました。また、アントウェルペンの復活が商業上の脅威になると未だに信じている一部のアムステルダムの有力な商人たちからの反発も大きいものでした。
そのため実力行使が採られたわけですが、結局は過去の失敗を踏襲するだけでした。オランダ軍は、リロやリーフケンスフックなど周辺の砦を占拠することには成功するものの、街の守備は堅強で手が出せず、砦にも次々にスペイン兵を満載した河船が送られてきます。2ヶ月以上そういったことが無為に繰り返され、さらに外交的要因(幼いフランス国王ルイ十四世とスペイン王女マリア=テレサとの婚約の噂)も重なって計画は放棄されました。いったんベルヘン=オプ=ゾームに撤退したオランダ軍は、そのままの足で、次いでフェンローに向かいます。
フェンロー攻囲戦
かつて1597年、ナッサウ伯マウリッツがフェンローで「ブレダの泥炭船」の再現を試みたことがありました。しかし中から城門を開くところまではうまくいったものの、その後の内外の連携がまずく失敗。トゥルンハウトの大勝とその後の1597年遠征の成功により、ちょうどその狭間にあったこの計画は忘れられるままになりました。
また1606年、今度は逆にスピノラの遠征の合間を縫って、ナッサウ伯時代の若きフレデリク=ヘンドリクは別働隊を率い、やはりフェンローの夜襲を計画します。これも城門を爆破するところまではうまくいきましたが、住民の激しい反撃に遭って失敗。長らくカトリックの支配が長いフェンローでは、プロテスタントの征服者に対する抵抗感が非常に高く、また、たまたま攻囲軍も短期決戦型だったため、容易に撃退が可能だったのだと思われます。その後1632年にフレデリク=ヘンドリクの再挑戦が成功したのは、この地を統べるスペイン=ヘルデルラント州総督の従兄ファン・デン=ベルフ伯の共和国転向があったからこそです。
そして今回、10月上旬にフェンローへ着き攻囲戦の準備をはじめたオランダ軍ですが、冬の到来が早く、3週間と経たないうちに攻囲を諦めざるを得ませんでした。
このように1646年の2つの街の攻囲、そして結果論にはなりますが八十年戦争最後の2つの戦いは、ほとんど見るべきところのないまま終わることになります。
余波
八十年戦争の陸戦としては、このフェンロー攻囲戦(1646)が最後となります。海戦は1647年6月にマニラ湾(フィリピン)でのカヴィテ港海戦がありますが、ここでは触れません。
軍のハーグ帰還はおそらく11月半ば、そしてフレデリク=ヘンドリクはそのわずか4ヵ月後の1647年3月には病死してしまいます。総指令自身が最後まで自ら指揮を執りつつも、軍事行動は失敗に終わり、冬期に一気に体調を悪化させて病死に至る…兄マウリッツのブレダ攻囲戦(1624-1625)のときとよく似たタイムラインです。この遠征の失敗と和平反対派のトップの死によって、ミュンスターでの交渉は加速し、1648年1月の「ミュンスター条約」に至ることになります。
ミュンスター条約で確定したネーデルランド連邦共和国国境
ミュンスター条約についての詳細はこちらへ。「ミュンスター条約とウェストファリア条約」
アントウェルペン周辺の砦、リーフケンスフック砦、リロ砦、クライス砦、フレデリク=ヘンドリク砦の4ヶ所は飛び地としてオランダ領となっています。ほかには、飛び地はマース川沿いの各所に多く、また、ユトレヒト付近にはいくつかの小さな伯領等があります。
リファレンス
- Kikkert, “Frederik Hendrik”
- Poelhekke, “Drieluik”
- Guthrie, W.P., The Later Thirty Years War, 2003
- Wilson, “Thirty Years War”
- Picart, “Memoires”