■ご注意■
この記事は、管理人以外の第三者の手によって2011年に「Yahoo!知恵袋」に引用されています。当時記事内に記載していた内容は日蘭交渉史の方法論に沿ったものではなく、公的サイトなど複数の公知情報をベースにした一般向けの記事でした。2014年、当時参考にしたURLが削除されていたこと、および、オランダ公文書館の正式見解に従って記事内容を修正しています。大学の課題提出期と思われる不定期な短期間、大学ドメインから知恵袋経由でこの記事へのアクセスが伸びる、ということが毎年のように繰り返されるのですが、上記のとおり学術水準には満たないもののうえ、既に当該部分は修正済ですので、取り扱いには充分にご注意いただきますようお願いいたします。
オランダ共和国は、1588年に共和国としての形態をとり、1590年代にアジア進出、1602年にはオランダ東インド会社を設立して、本格的に対ヨーロッパ外外交にも参入していきました。とくに日本との関係については、最初に正式な外交を結んだ国家、且つ、鎖国中に唯一通商のあったヨーロッパ国家ということで、特別な関係にあったといえます。あまり知られていませんが、家康の文通(?)相手はナッサウ伯マウリッツです。
ヨーロッパ内では1596年に英仏と三国同盟を結んだオランダ連邦議会ですが、議会の「主権者」としての位置づけには議論もありました。対ヨーロッパ外でも「国王」不在の弊害はもちろんありますが、少なくとも黎明期の外交文書については、マウリッツの署名で充分な代用になったようです。そんな初期の文書について、情報不足ながらもまとめました。
徳川家康の対オランダ朱印状
2009年は、「日蘭通商400周年」でした。何をもって400年かというと、「徳川家康がオランダに公式に日本との通商の許可を与えた」 のを起点としています。
このときの家康の朱印状は、現在、ハーグの国立文書館に所蔵されています。1609年8月24日(慶長14年7月25日)付。家康からの朱印状は、同じ文面のものが全部で宛名の違う4名に宛てられて4通存在していたそうなのですが、現存するのはこの1通のみとのことです。駐日オランダ大使公邸にもレプリカが飾ってあります。
参考:
江戸時代の日蘭交流 国立国会図書館: 1.日蘭交流のはじまり
静岡市経済局商工部観光課 「大御所四百年記念 家康公を学ぶ」外国人の大御所詣で
この朱印状、(1) 家康がオランダに通商を求める書状(1605)→ (2) オランダ側からも通商を求める回答→ (3) さらにそれに対してのお墨付、の(3)にあたるものです。このように所蔵場所も明確ですし、写真も公開されています。しかし逆に、この(2)オランダからの書状というのがどこにあるのか、今のところ探せていません。どうやらポルトガル語で書かれていたらしいことまではわかりました。国と国との書簡のため主権者に準じる者同士の署名が必要となりますが、当時のオランダは「主権者」が非常にあいまいな状態です。(もっとも、この時点で家康も「大御所」ですが)。
とりあえず、一般に日蘭関係について書かれている日本語の本では、便宜上ナッサウ伯マウリッツを国を代表する「国王」と称しているとされます。しかし、これもソースが示されている本を探せていないので、書簡現物・原語ではどのような表現をされていたのか非常に気になるところです。実際のところ、マウリッツの役職である「スタットハウダー」も「陸海軍総司令官」も連邦から給料をもらう一介の官吏(公務員)に過ぎないわけですし、当時のマウリッツはまだ正式に「オランイェ公」にすらなっていません。「オラニエ公の書状」と無批判に書かれているものもありますが、当時の「オランイェ公」のタイトル保持者は共和国の外交に何ら関わりのないフィリップス=ウィレム(マウリッツの異母兄)であり、彼の死の1618年2月までは「オランイェ公のアジア向け外交書簡」なる概念は、厳密には存在し得ないともいえます。
家康の朱印状の内容
内容は至極シンプルで、「オランダ船は、日本のどこの港に着岸しても良く、その旨相違なし」との趣旨と日付のみ。その横に家康の朱印が押印されています。いちばん左は宛名で、「ちゃくす くるうんへいけ」となっています。
ところで「ちゃくす くるうんへいけ」とは誰のことでしょう。オランダ商人のヤーコプ・フルーンウェーヘン Jacob Groenewegen と一般的に言われています。 が、このフルーンウェーヘンは、確かにマウリッツの国書を携えた艦隊の一員ではありましたが、オランダ使節が平戸に入港した7月1日よりも前の5月22日にインドネシアのバンダ島で戦死しています。そのため、平戸オランダ商館初代商館長のヤックス・スペックス Jacques Specx に、ミドルネームのコルネリスゾーン Cornelisz の略称 Corn をプラスした Jacques Corn Specx のことではないか、という説もあるようです。 (ソースURL削除につき記述も削除)
マウリッツの外交書簡とその称号
ヨーロッパ外の国との交渉の際、オランダが用意した国書について、管理人手持ちの資料でわかるかぎり調べてみました。
- アフリカの探検隊に宛てたもの(原文の白黒写真)
- インドネシア・アチェのスルタンに宛てたもの(原文の白黒写真およびオランダ語訳テキスト)
- 家康に宛てた返書(上記の1607年頃のものではなく1612年のもの)
1. アフリカの探検隊に宛てたもの
探検隊?の意図がよくわからないのですが、いちおう対外書簡のようです。解説文をみると、「主権者 soeverien」として書かれているとのことで、ここでの称号は「フェーレ侯 Markies van Veere」となっています。マウリッツの持つナッサウ伯のタイトルは家名であってナッサウの領地は付随していないので、当時所持していた所領を持つ称号の中でも最も格上のタイトルが使われたのでしょうか。本文はオランダ語、末尾にマウリッツの自書の署名があります。本文は、写真自体かなり小さいので残念ながら解読不能です。
2. インドネシア・アチェのスルタンに宛てたもの
スペイン語で書かれた書簡。東インドでは既にスペイン・ポルトガルが通商をしていたことから、おそらく先方が理解できるであろう言語で書かれたものと推測されます。オランダ東インド会社の前身であるゼーラント会社に託された書簡は、ちょうどポルトガルと係争中だったスルタンに歓迎され、翌年にはすぐにスルタンの大使がオランダへやってきました。ちょうどハーグにマウリッツが留守だったため、大使たちはフラーフェ攻囲戦(1602)の軍幕にも訪れています。
この親書のオランダ語訳コピーを入手できたので読んでみました。「我々(連邦諸州)はここ30年間スペインと交戦中の者です」という自己紹介からはじまり、「ポルトガルもスペインの手先なので信用できませんよー」という警告とオランダとの友好通商の依頼、書状を委託する船員たちの名前と彼らに贈り物を持たせる旨が記載されています。いわゆる、家康に宛てたといわれる書状の内容とほぼ同じなので、ファーストレターとしてのテンプレートなのでしょう。末尾のみマウリッツの手書きによるスクリプトで、「陛下の忠実なしもべ」的な決まり文句とフランス語による署名になっています。ここでは称号にあたるものは書かれていません。
3. 家康との往復書簡
なぜかこの資料に関してだけ、現物の写真がなく解説文のみでした。マウリッツが家康に宛てた親書が1610年12月18日付、家康からの返書が1612年11-12月付とのことです。この解説文の中で家康のことは、「日本の皇帝 Keizer van Japan」と表現されていますが、マウリッツ側の称号は明記されていませんでした。
日本とオランダの貿易の初期段階として、それぞれ家康とマウリッツの間で贈り物もされていました。オランダからは絵画、世界地図(下記の番組でも取り上げられていましたが、後に日本で屏風として描かれた下図)、武器甲冑やテーブルなど。日本からは漆器や磁器、合戦図の描かれた屏風などが贈られています。
家康からマウリッツ宛の親書
2023年12月17日放送 NHKスペシャル『家康の世界地図 〜知られざるニッポン“開国”の夢〜』で、家康からマウリッツ宛の親書(1615)が紹介されていました。上記の書簡類のさらに次のやり取りと思われます。日本について「陋邦」(ろうほう・卑しい国)と謙った表現を用い、好条件を提示して貿易を求める内容とのことです。
レイデン大学アーカイブに原文が公開されています。
“Epistola Imperatoris Japonensium ad Principem Mauritium Or. 1615 (1)” Leiden University Libraries Digital Collections
参考
四都図・世界図屏風 神戸市立博物館
二十八都市萬国絵図屏風 宮内庁
ほかには、「インドの君主は、ホラント国王 koning van Holland と呼んだ」と書かれた本もありました(七州全体ではなくホラント限定みたいです)。が、上記のように、実は結局わからないことだらけです。とりあえず、現状わかっていることのみ記しておきます。
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。
- Het Geheugen van Nederland Handelspas 1609
- Zandvliet,K., Maurits Prins van Oranje, Waanders Uitgevers, 2000
- 永積昭『オランダ東インド会社』、講談社、2000年
- 浅田実『東インド会社―巨大商業資本の盛衰』、講談社、1989年
- 羽田正『興亡の世界史<15>東インド会社とアジアの海』、講談社、2007年