対戦国 | オランダ イングランド フランス スコットランド |
スペイン |
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勝 敗 | ○ | × |
参加者 | オランイェ公フレデリク=ヘンドリク ブレーデローデ卿ヨハン=ヴォルフェルト ナッサウ伯ウィレム二世 ナッサウ=ジーゲン伯ハインリヒ ナッサウ=ベフェルウェールト伯ローデウェイク ゾルムス=ブラウンフェルス伯ヨハン二世アルプレヒト ドートリーヴ侯フランソワ・ド・ローベスピーヌ ガスパール四世ド・コリニー=シャティヨン デストラーデ伯ゴドフロワ=ルイ ホールネ伯ヨハン=ベルギクス? コンスタンティン・ホイヘンス (ガション伯ジャン) |
ジャック・ド・アイナン ジャン・ド・ベック |
1635年に締結された「パリ条約」から10年、共に「南ネーデルランド分割構想」を企んだリシュリュー枢機卿は既に亡く、フランスは膠着した南ネーデルランド戦線よりも、コンデ、テュレンヌの若きコンビで快進撃を続けるドイツ戦線に主眼を置きつつあった。一方、ミュンスターで始まっている和平への参加を巡って国内が揺れる中、病魔に侵されたオランイェ公フレデリク=ヘンドリクは、何かに憑りつかれたようにアントウェルペン奪還を目指す。それはまるで、先のオランイェ公、兄マウリッツの辿った晩年をなぞるかのような執着だった。
ナッサウ=ベフェルウェールト伯はスピノラ砦を強襲しようと考え、この砦の略奪を要求していた残酷で無慈悲なフランス人たちと一緒に殿下に無理強いしましたが、殿下は砦が即座に降伏したなら保護を与えるとおっしゃいました。
ザイリヘム卿コンスタンティン・ホイヘンス/”Archives”
はじめに
オランダは海抜0m以下の地形が多く、もともと水の災害の起こりやすい地域です。八十年戦争の時代も含め、人為的/自然的な洪水、永続的/一時的な干拓などで、地図も頻繁に書き換わっています。この攻囲戦の舞台のフルストも、現在はいちばん近い海岸線まで10km程度の距離がありますが、当時はここに挙げている地図のとおり、街の部分がくびれているかたちの、両側が水に挟まれた地形でした。この攻囲戦では6つの砦が出てきます。その中で現存しているメールスハンス砦も今は周りはすべて陸地となっていますが、当時は水辺に建てられていて直接船が着けるようになっていました。
この版画を見ると、メールスハンス砦と逆側のナッサウ砦も海岸線に面していて、その向かいにアクセルの街があります。アクセルは1586年とだいぶ早い段階からオランダの所有となっていて、1596年にいったんフルストが陥落しても、半世紀以上オランダ側に留まりました。現在とは違う、補給しやすく且つ守りやすい地形が幸いしたと考えられます。
版画には参戦者とその位置取りについての情報も豊富です。この攻囲戦の参加者でもっとも特徴的なのは、フレデリク=ヘンドリクの長男のウィレム二世です。前年に18歳と成人しているはずですが、前年のサス・ファン・ヘント攻囲戦ではまだ自分の部隊を率いてませんでした。今回は19歳にして自身のキャンプを運営しており、環状攻囲戦の守りの一角を任されています。補佐として、ナッサウ=ジーゲン伯ハインリヒが隣にキャンプを張っています。元帥のブレーデローデ卿にはこの年から敬称として「閣下」が使用されているようです。フランス連隊は、前年に参戦していたタルモン公がいないため、ドートリーヴ侯が連隊長となりました。ドートリーヴ侯は実に40年越しの出世となります。また、この記事で頻出するコンスタンティン・ホイヘンスは、軍人ではなくフレデリク=ヘンドリクの秘書官です。主に同行し、その妃アマーリアの依頼で逐一情報を送っていました。
経緯
1638年、直接アントウェルペンを海路から狙ったカロの戦いで大敗したことを受け、1640年いったんフルスト攻囲が試みられました。しかし攻囲を始める前段階での近辺の砦の占領に手間取り、ナッサウ=ディーツ伯ヘンドリク=カシミールを亡くしたことでフレデリク=ヘンドリクは失意のうちに計画を中止しています。
冒頭に挙げたホイヘンスの書簡にある、ナッサウ=ベフェルウェールト伯は前オランイェ公マウリッツの庶子。彼やフランス軍に対する不快感が書面にも表れているように、1645年はフランスとオランダとの共闘条約から、つまりフランスの三十年戦争参戦から既に10年、フランス軍だけではなくオランダ軍内部にも略奪を是とする風潮が発生していることがうかがえます。また、ホイヘンスは別の書簡でも、フランスの元帥たちは無能なので来年以降は協力の必要はないが、条約によって国庫にもたらされる15万フランには代えがたい、などとかなり辛辣な表現を用いています。
実は今回の目的は当初フルストではなく直接アントウェルペンを攻囲することでした。しかし8月末から9月にかけ、共闘するはずのフランス軍の別動隊が北フランスで全く事前報告のない軍事行動(スペインの守備隊の少ない街や砦を選び次々占領)を行いました。ホイヘンスが「裏切り」という強い言葉を用いて言及している「元帥たち」は、オランダ軍と当初から帯同しているフランス連隊のことではなく、この別動隊を率いていたフランス元帥のガション伯とランツァウ伯のことです。ガション伯とランツァウ伯は自分たちの快進撃を恃み、そのままブリュージュを標的にするつもりでいました。この元帥たちは口ではアントウェルペンでの合流を約束するものの、ブリュージュを狙える位置から動こうとしません。
彼らへの不信により、フレデリク=ヘンドリクは難易度の高いアントウェルペン攻囲は危険と考え、急遽フルスト攻囲に目標を変更しました。アントウェルペンよりもブリュージュ寄りのフルストであれば、フランス軍が現在地に留まったままでも牽制くらいにはなります。実際、スペイン側へ援軍を率いてきたド・ベック男爵は、攻囲主体のオランダ軍ではなく、ヘント北部に留まるフランス軍の側に進路を向けました。
フルストを完全に環状攻囲線で包囲した翌日の10月6日までこの変更は本国に伝えられなかったため、ハーグの連邦議会や、ブレダにいたオランイェ公妃アマーリアまでが非常に驚き大混乱となりました。ただ一人その意図を完全に理解したのは、フリースラント州総督のナッサウ=ディーツ伯ウィレム=フレデリク(今回遠征には不参加)だけだったとのことです。
戦闘
攻囲戦自体は、1640年の失敗が嘘のように容易に進みました。フルストには1600人の守備隊しかいないため、知事のド・アイナンは援軍を依頼していました。しかし、上記のようにド・ベック男爵は西側のフランス軍のほうに向かってしまったため、フレデリク=ヘンドリクは4500の歩兵に街の東側を攻めるよう命じます。ほとんど困難なく10日ほどで東部の制圧は完了しました。
東側に補強のため1000の騎兵を送ると、残りの部隊は中央突破を試みます。18日間アプローチが掘り進められ、その間ずっと砲撃が続けられました。街が降伏したのは11月3日です。翌日には街の引き渡しが行われました。
余波
スペインの撤退の様子が2枚の版画になっています。フレデリク=ヘンドリクの横には息子のウィレム二世、フルストの街と砦のいくつかが遠景に描かれています。司教座であったスヘルトヘンボス攻囲戦(1629年)のとき同様、南ネーデルランドにほど近いフルストは、スパイ対策としてカトリックの礼拝が禁じられ、軍隊と新教に改宗しない市民はアントウェルペンへ追放されることになりました。
11月12日、街の中心のシント・ウィリブロドゥス大聖堂で感謝祭が開催されました。この大聖堂もあらゆる偶像が取り外され、プロテスタント化されることになります。
10月27日にホイヘンスが「もう冬の入り口です」と書いているように、11月ともなれば冬営の時期となります。11月19日、ナッサウ=ジーゲン伯ハインリヒをフルストの知事として残し、軍は冬営に入るため帰国の途につきました。
リファレンス
- Prinsterer, “Archives”
- Picart, “Memoires”
- van Nimwegen, The Dutch Army and the Military Revolutions, 1588-1688, 2010