アーレント・ファン・ダイフェンフォールデとヘイスベルト・ファン・ダイフェンフォールデの兄弟は、1566年の「請願」にも加わっていた下級貴族。ダイフェンフォールデの家名はアーレント系に、ヘイスベルト系がワセナールを名乗りましたが、後の歴史記述上区別するためのもので、本人たちはどちらも名乗っていた可能性が高いです。
- アーレント・ファン・ダイフェンフォールデ
- ヨハン・ファン・ダイフェンフォールデ
- ヘイスベルト・ファン・ダイフェンフォールデ
- ヤーコプ・ファン・ワセナール=ダイフェンフォールデ
- ヤーコプ・ファン・ワセナール=オプダム
- ヤーコプ・ファン・ワセナール=ダイフェンフォールデ
ヨハン・ファン・ダイフェンフォールデ Johan III van Duivenvoorde
- ホラント・西フリースラント州提督 luitenant-admiraal、水管理委員会委員、ホラント州議会議員
- 生年: 1577 フォールスホーテン(蘭)
- 没年: 1645/4/27 ハーグ?(蘭)
生涯
現存するダイフェンフォールデ城の当時の城主で生まれたのも同城。1602年のスライスの海戦では提督として参戦し、フェデリコ・スピノラを破りました。1614年にフォールスホーテンの土地を購入して領主を名乗り、ホラント・西フリースラント州の要職に就くようになります。1630年代には最も裕福なハーグ人のひとりとなったようです。
リファレンス
- “NNBW“
ヤーコプ・ファン・ワセナール=ダイフェンフォールデ Jacob van Wassenaer Duivenvoorde
- ホラント・西フリースラント州提督 luitenant-admiraal、フースデン知事 gouverneur van Heusden
- 生年: 1574 ハールレム(蘭)
- 没年: 1623/8/31 ?(蘭)
生涯
ヨハンの従兄。1590年代に英・蘭合同艦隊でおこなった二度の遠征(カディス遠征、アゾレス諸島遠征)に提督として参加しています。その時点で若年だったことを考えると、父や伯父(いずれかがマウリッツの1591年・1592年遠征で古参の将軍として参戦しています)の後押しがあったのかもしれません。その後も海戦というよりは、砂糖を積んだスペイン船を襲ったり、どちらかというと海賊まがいの船長をしていたようです。
1615年、従弟同様にリーニュ公からザイトウェィクの土地を購入し、1620年頃からワセナール卿と名乗るようになります。この頃からやはり従弟と同じく政治や外交の世界で活躍するようになったようです。アムステルダムやユトレヒトの有力者とのパイプがありました。
リファレンス
- “NNBW“
ヤーコプ・ファン・ワセナール=オプダム Jacob Baron van Wassenaer Obdam
- ワセナール男爵 Baron van Wassenaer、オプダム卿 Heer van Obdam、エレファント騎士
- 生年: 1610 ハーグ(蘭)
- 没年/埋葬地: 1665/6/13 ローストフトの海戦/ハーグ・聖ヤコブ大教会
生涯
ヤーコプの同名の一人息子。八十年戦争のあいだ(ミュンスター条約前)はどちらかというと陸軍に身を置いており、1632年のマーストリヒト攻囲戦や、父と同様に知事を務めたフースデンの守備隊の騎兵将校となっています。
1650年、オランイェ公ウィレム二世がクーデターの最中に病気で急死すると、反オランイェ派を表明するようになります。ワセナール家にはカトリックの者が多く、信教の理由もあったようです。英蘭戦争が始まり、彼が提督として担ぎ出されたのは、トロンプ(オランイェ派)やデ・ロイテル(中立)への対抗馬としての政治的な意味合いが強く、それまで海軍と縁の無かったワセナール=オプダムは完全に素人ともいえました。
以降は英蘭戦争後の話なので、提督の参加した有名な戦いだけ書いておきます。
- 北方戦争 エーレスンドの海戦
- 第二次英蘭戦争 ローストフトの海戦
リファレンス
- 友清理士『イギリス革命史(上)―オランダ戦争とオレンジ公ウイリアム』研究社、2004年