神聖ローマ帝国内でナッサウ伯が属していた組織を2つ。まったくの別物でありながら、相互に関連していなくもなかったりします。もとは自分用参照リストとして作成しました。
帝国クライス
現時点ではほとんど独ウィキの部分的丸写し。とりあえず、オランダに直接からむライン地域の2つのクライスのみ、且つ、八十年戦争期(もちろん三十年戦争期も含む)の1568-1648年に絞って挙げてあります。
オーバーライン・クライス
プファルツ選帝侯を除いたプファルツ諸侯とヘッセン=カッセル方伯を中心としたクライス。飛び地でサヴォイアが入っているのが面白い。
俗界諸侯部会
- プファルツ=ラウテルン公 Herzogtum Pfalz-Lautern; Inhaber Kurpfalz seit 1592
- プファルツ=ジンメルン公 Herzogtum Pfalz-Simmern; Inhaber Kurpfalz seit 1559
- プファルツ=フェルデンツ公 Herzogtum Pfalz-Veldenz
- プファルツ=ツヴァイブリュッケン公 Herzogtum Pfalz-Zweibrücken
- ヘッセン=ダルムシュタット方伯 Landgrafschaft Hessen-Darmstadt
- ヘッセン=カッセル方伯 Landgrafschaft Hessen-Kassel
- サヴォイア公 Herzogtum Savoyen
- ハースフェルト侯 Fürstentum Hersfeld
- シュポンハイム伯 gefürstete Grafschaft Sponheim
- ザルム伯 (1623年以降) gefürstete Grafschaft Salm (Wild- und Rheingrafen); seit 1623 Reichsfürsten
伯部会
- ファルケンシュタイン伯 Grafschaft Falkenstein
- ハーナウ=リヒテンベルク伯 Grafschaft Hanau-Lichtenberg
- イーゼンブルク=ビューディンゲン伯 Grafschaft Isenburg-Büdingen
- ケーニヒシュタイン伯 Grafschaft Königstein
- クリーヒンゲン伯 Grafschaft Kriechingen; Inhaber Wied-Runkel
- ライニンゲン=ハルデンブルク伯 Grafschaft Leiningen-Hardenburg
- ライニンゲン=ヴェスターブルク伯 Grafschaft Leiningen-Westerburg
- ザルム=ダーウン伯 Grafschaft Salm-Dhaun (Wild- und Rheingrafen)
- ザルム=グルムバッハ伯 Grafschaft Salm-Grumbach (Wild- und Rheingrafen)
- ザルム=シュタイン=グレーヴァイラー伯 Grafschaft Salm-Stein-Grehweiler (Wild- und Rheingrafen)
- ザイン=ヴィットゲンシュタイン=バーレブルク伯 Grafschaft Sayn-Wittgenstein-Berleburg
- ザイン=ヴィットゲンシュタイン=ヴィットゲンシュタイン伯 Grafschaft Sayn-Wittgenstein-Wittgenstein
- ゾルムス=ホーエンゾルムス伯 Grafschaft Solms-Hohensolms
- ゾルムス=ラウバッハ伯 Grafschaft Solms-Laubach
- ゾルムス=リッヒ伯 Grafschaft Solms-Lich
- ゾルムス=レーデルハイム伯 Grafschaft Solms-Rödelheim
- ダークシュトゥール領主 (1634年以降) Herrschaft Dagstuhl
- ライポルツキルヒェン領主 Herrschaft Reipoltskirchen
ニーダーライン=ヴァストファーレン・クライス
大貴族はユーリヒ=ベルク公のみ。三十年戦争期はほぼ不在状態。ので、比較的伯部会でまとまっているようです。もちろんオランダとの相互の影響も強いでしょう。
俗界諸侯部会
- ユーリヒ=ベルク公 Herzogtum Jülich-Berg
- クレーフェ=マルク公 Herzogtum Kleve mit der Grafschaft Mark
伯部会
- ベントハイム伯 Grafschaft Bentheim
- ブランケンハイムおよびゲロルシュタイン伯 Grafschaft Blankenheim und Gerolstein
- ブロンクホルスト領主 (1719年断絶) Grafschaft Bronkhorst
- ディープホルツ伯 Grafschaft Diepholz
- グロンスフェルト伯 Grafschaft Gronsveld
- ハラームント伯 Grafschaft Hallermund
- ホルツァッペル伯 Grafschaft Holzappel
- ホールン伯 (1614年以降) Grafschaft Hoorn
- ホーヤ伯 Grafschaft Hoya
- ケルペンおよびロマーズム伯 Grafschaft Kerpen und Lommersum
- リンゲン伯 Grafschaft Lingen
- リッペ伯 Grafschaft Lippe
- マンダーシャイト伯 Grafschaft Manderscheid
- メールス伯 Grafschaft Moers
- ナッサウ=ディレンブルク伯 (1664年から侯) Grafschaft Nassau-Dillenburg; 1664 Fürstentum
- オルデンブルク伯 (1777年から公) Grafschaft Oldenburg; 1777 Herzogtum
- オストフリートラント伯 (1667年から侯) Grafschaft Ostfriesland; 1667 Fürstentum
- ピルモント伯 Grafschaft Pyrmont
- ラーフェンスベルク伯 Grafschaft Ravensberg
- レックハイム伯 Grafschaft Reckheim
- リートベルク伯 Grafschaft Rietberg
- ザルム=ライファーシャイト伯 Grafschaft Salm-Reifferscheid
- ザイン伯 Grafschaft Sayn
- シャウムブルク伯 Grafschaft Schaumburg
- シュライデン伯 Grafschaft Schleiden
- シュピーゲルベルク伯 Grafschaft Spiegelberg
- シュタインフルト伯 Grafschaft Steinfurt
- テクレンブルク伯 Grafschaft Tecklenburg
- フィルネブルク伯 Grafschaft Virneburg
- ヴィート伯 Grafschaft Wied
- アンホルト領主 Herrschaft Anholt
- ゲーメン領主 Herrschaft Gemen
- ギムボルン領主 Herrschaft Gimborn
- ミレンドンク領主 Herrschaft Myllendonk
- ライヒェンシュタイン領主 Herrschaft Reichenstein
- ヴィクラート領主 Herrschaft Wickrath
- ヴィンネブルクおよびバイルシュタイン領主 Herrschaft Winneburg und Beilstein
- ヴィッテム領主 Herrschaft Wittem
帝国伯フェライン
「フェライン」をどう訳すかが悩みどころなので、とりあえずカタカナ書きで。ただ、「同盟」としてしまうときっちり約束をしているイメージがあり、それよりは若干ゆるい感じなので、ただ集まっているだけの意味で、暫定的に「連合」を宛ててみます。本来は「クラブ」がいちばん近いでしょうか。
とはいえ、「Grafenverein」で検索をかけてもヴェッテラウしか出てこないので、この地域に固有の組織の可能性もあります。帝国クライスとはまったくもって別物の組織。
それでも、オーバーライン・クライスとニーダーライン=ヴァストファーレン・クライスからのメンバーが多く、けっこうかぶっています。シュヴァーベンクライスからの参加もあり。
ヴェッテラウ帝国伯連合
歴史は15世紀からですが、宗教改革を経て、三期に分けられます。いちおう1806年まで存続はしたようですが、三十年戦争によって形骸化し、1652年以降は本来のかたちではほとんど機能していません。
第一次 1422-1524
カッツェンエルンボーゲン伯の継承問題にヘッセン=カッセル方伯が介入したのがこの連合の発端。1479年にナッサウ伯がカッツェンエルンボーゲンを吸収することで連合のまとめ役となり、その直後の1495年のヴォルムス帝国議会以降、帝国議会で1票の投票権を持つことになります。1512年からは定期的に議会へ代議員を送っています。
(第一次はリスト内の個人名は割愛)
- カッツェンエルンボーゲン伯 (1479年断絶) Katzenelnbogen
- ナッサウ=ディレンブルク伯 (1436年統合) Nassau-Dillenburg
- ナッサウ=ヴァイルブルク伯 Nassau-Weilburg
- リーネック伯 Rieneck
- ゾルムス伯 Solms
- ヴェルトハイム伯 Wertheim
- ツィーゲンハイン伯 Ziegenhain
- エッペルシュタイン領主 Eppstein
- ハーナウ領主 Hanau
- イーゼンブルク領主 Isenburg
第二次 1525-1575
ヘッセン=カッセル方伯およびマインツ選帝侯の領土拡張主義への対抗は継続し、さらにハプスブルクへの脅威にも団結する意識がでてきました。連合内部での内紛の調整や外憂への対応、また共通の法体系として「ゾルムス・ラント法」を採用しました。ちょうど宗教改革期にもあたり、当初こそ中立の立場を保っていたものの、シュマルカルデン戦争を経て、「アウグスブルクの和議」をプロテスタントとして採り入れています。
ここに挙げたメンバーの各1行めに挙げたメンバーはは1565年に新たに調印したメンバー。それ以降は、1648年までの継承者(当主)です。15世紀から比べて加入も多いですが、第一次から統合や断絶、脱退を経て若干変わっています。第一次時代の「領主」はすべて伯になっており、すべての家系がニーダーライン/オーバーライン両クライスのいずれかに属しています。
- ナッサウ=ディレンブルク伯 Nassau-Dillenburg
- ヘンドリク三世 1516–1538
- ヴィルヘルム一世(富裕伯) 1538–1559
- ヤン六世 1559–1606
- ウィレム=ローデウェイク 1606-1620
- ゲオルク 1606-1623
- ローデウェイク=ヘンドリク 1623-1662
- ゾルムス=ブラウンフェルス伯 Solms-Braunfels
- ベルンハルト三世 1504–1537
- フィリップ 1537–1581
- コンラート 1581–1592
- ヨハン一世アルプレヒト 1592–1623
- コンラート=ルートヴィヒ 1623–1635
- ヨハン二世アルプレヒト 1635–48
- ゾルムス=ラウバッハ伯 Solms-Laubach
- フリードリヒ一世マグヌス 1544–1561
- ヨハン一世ゲオルク 1561–1600
- アルプレヒト一世オットー 1600–1610
- アルプレヒト二世オットー 1610–1656
- ゾルムス=レーデルハイム伯 Solms-Rödelheim
- フリードリヒ 1607–1649
- ゾルムス=ゾンネヴァルデ伯 Solms-Sonnenwalde
- オットー 1596–1612
- フリードリヒ=アルベルト 1612–1615
- ハインリヒ=ヴィルヘルム 1627–1632
- ゾルムス=バルート伯 Solms-Baruth
- ヨハン一世ゲオルク 1615–1632
- ヨハン二世ゲオルク 1632–1690 共同統治
- フリードリヒ一世ジギスムント 1632–1696 共同統治
- ハーナウ=ミュンツェンベルク伯 Hanau-Münzenberg
- フィリップ二世 1512–1529
- フィリップ三世 1529–1561
- フィリップ一世ルートヴィヒ 1561–1580
- フィリップ二世ルートヴィヒ 1580–1612
- フィリップ=モーリッツ 1612–1638
- フィリップ三世ルートヴィヒ 1638–1641
- ヨハン=エルンスト 1641–1642
- フリードリヒ=カシミール 1642–1685 ハーナウ伯
- ハーナウ=リヒテンベルク伯 Hanau-Lichtenberg
- フィリップ三世 1504–1538
- フィリップ四世 1538–1590
- フィリップ五世 1590–1599
- ヨハン一世ラインハルト 1599–1625
- フィリップ=ヴォルフガンク 1625–1641
- フリードリヒ=カシミール 1641–1685 ハーナウ伯
- ザイン=ザイン伯 Sayn-Sayn
- ゲルハルト三世/ヨハン五世 1493–1529 共同統治
- ヨハン六世/セバスティアン二世 1529–1573 共同統治
- アドルフ/ヘルマン/ハインリヒ四世 1560–1606 共同統治
- アンナ=エリーザベト 1606–1608 ヴィルヘルム三世妃
- ザイン=ヴィットゲンシュタイン=ザイン伯 Sayn-Wittgenstein-Sayn
- ヴィルヘルム三世 1605–1623
- エルンスト 1623–1632
- ルートヴィヒ 1632–1636
- シュトルベルク=ケーニヒシュタイン伯 Stolberg-Königstein
- ヴォルフガンク/ルートヴィヒ/アルプレヒト=ゲオルク 1535-1574 共同統治
- ヴォルフ=エルンスト 1574-1606
- クリストフ 1606–1638
- ハインリヒ=エルンスト 1638-1672
- イーゼンブルク=ビューディンゲン伯 Isenburg-Büdingen
- ヨハン五世 1511–1533
- フィリップ 1533–1596
- ヴォルフガンク=エルンスト 1596–1633
- ヴォルフガンク=ハインリヒ 1633–1635
- ヨハン=ルートヴィヒ 1635–1685
- ライニンゲン=ヴェスターブルク伯 (1597年断絶) Leiningen-Westerburg
- クーノ二世 1522-1547
- ラインハルト二世 1547-1584
- アルプレヒト=フィリップ/ヨハン=ルートヴィヒ 1584-1597 共同統治
- ヴィート伯 Wied
- ヴィルヘルム三世/ヨハン一世 1487–1533 共同統治
- フィリップ 1533–1535
- ヨハン二世 1535–1581
- ヘルマン一世/ヴィルヘルム四世/ヘルマン二世 1581–1631 共同統治
- フリードリヒ二世 1631–1698
第三次 1576-1648
1576年にいちど、大きな組織改革がありました。第二次宗教改革の波を受け、プファルツ選帝侯が改革派に改宗すると、追随する諸侯が多く出ます。かといって、ナッサウ伯が目論んだように、連合のメンバーを改革派で統一するまでには至りませんでした。ケルン戦争を経てマインツ選帝侯との関係がより悪化し、分割継承によって領地をさらに弱めないため、次男以下の男子に継承させず官職や軍務に追いやるという手法も採られはじめました。ただ、逆に今までの仮想敵のひとりヘッセン=カッセル方伯の改革派改宗は、ひとつの懸念を払拭しました。
しかし三十年戦争期、プファルツ選帝侯とのつながりが連合を直撃します。彼らの多くは民兵をよく組織していましたが、それでも繰り返し領内を通過する大量の傭兵たちの群れに対抗できず、小領地は荒れるがままにされてしまいました。資金不足のため、代議員がウェストファリア条約のテーブルにもつかせてもらえなかったほどです。しかし、条約の結果としては彼らの要求に充分に沿ったもので、没収された財産は回復され、信教の自由も法的に認められました。
以下は、1576年以降の追加メンバー。ナッサウ=ヴィースバーデン伯はマインツの脅威に対抗して加入したもの。なお、存続した数百年のあいだで、最大のメンバーは20家門とか。
- ナッサウ=ザールブリュッケン=ヴァイルブルク伯 Nassau-Saarbrücken-Weilburg
- フィリップ三世 1575–1602
- ルートヴィヒ二世 1602–1627
- ヴィルヘルム=ルートヴィヒ 1627–1640
- クラフト 1640–1642
- ナッサウ=ヴィースバーデン伯 (1605断絶) Nassau-Wiesbaden
- ヨハン一世ルートヴィヒ 1567–1596
- ヨハン二世ルートヴィヒ 1596–1605
- ヴァルデック=アイゼンベルク伯 Waldeck-Eisenberg (neuere Linie)
- ヴォルラート四世 1588–1640
- フィリップ=ディートリヒ 1640–1645
- ハインリヒ=ヴォルラート 1645–1664
- ヴァルデック=ヴィルドゥンゲン伯 Waldeck-Wildungen (neuere Linie)
- クリスティアン 1588–1638
- フィリップ七世 1638–1645
- クリスティアン=ルートヴィヒ 1645–1706
- ハッツフェルト伯 Hatzfeld-Gleichen-Trachenberg
- メルヒオール 1635-1658
- ホルツァッペル伯 Holzappel
- ペーター・メランダー 1641-1648
リファレンス
- Wikipedia (DE) Oberrheinische Reichskreis
- Wikipedia (DE) Niederrheinisch-Westfälische Reichskreis
- Wikipedia (DE) Wetterauer Grafenverein