オランイェ公ウィレム一世自身の挙兵時代から、その暗殺を経て共和国が設立される時期まで、「反乱軍」を支えた将軍たち。ほとんどの将軍が「マウリッツの十年」の直前の時期までに戦死や事故死で命を落としており、それがある意味ウィレム時代の「反乱軍」から軍制改革時代の「共和国軍」への、世代交代を加速させた間接的な原因となったともいえます。
リファレンス
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『オラニエ公ウィレム―オランダ独立の父』文理閣、2008年
- “BWN” de Soete
- University Leiden, “Personen” Boussu
- “ADB” Schenk
- Motley, “Rise”
- Motley, “United Netherlands”
ヴィレ卿ヨースト・デ・スーテ Joost de Soete, Heer van Villers
- ヴィレ卿 Heer van Villers
- 生年: 1510-1520頃 スライス(蘭)
- 没年: 1589/3 ハーグ(蘭)
生涯
オランダの軍人。オランイェ公ウィレム一世の第一次侵攻の際には三方からの侵攻が計画されましたが、ウィレム本人の南軍、ウィレムの弟ナッサウ伯ルートヴィヒの北軍と並び、中央からの侵攻を試みました。これは惨敗の結果に終わってしまいますが、八十年戦争の起点のひとつとされる戦いに関わった、最古参の将軍ということになります。
デ・スーテはその後1584年に総司令官となります。これはウィレムの暗殺を受け、その次男マウリッツが陸海軍を統べる立場になる1587年までの、一時的な代理という意味と思われます。ファン・ニーウェナール、フォン・ニデッゲンなどと協同してケルン戦争や対スペイン戦に当たりました。デ・スーテは1589年にヘールトライデンベルフ付近での戦いに巻き込まれ負傷、その後ハーグに運ばれ死亡しました。生年ははっきりしていませんが、それでも70歳前後(場合によっては80歳)まで現役司令官だったということになります。
ブッス伯マキシミリアン・ド・エナン=リエタール Maximilien de Hénin-Liétard, Graaf van Boussu
- ブッス伯 Graaf van Boussu、バーヴリー/リモーニュ卿 Heer van Beuvry en Rimogne、ホラント/ゼーラント/ユトレヒト州総督 Stadhouder van Holland, Zeeland en Utrecht
- 生年: 1542 アントウェルペン(白)
- 没年: 1578/12/21 アントウェルペン(白)
生涯
ウィレム一世がディレンブルクに亡命した際、その代理としてホラント/ゼーラント/ユトレヒト州総督に任命されました。ちょうどこれは、「海乞食」によるデン=ブリール占領にはじまる一連の「反乱」に対し、州総督として対処を迫られる立場となったことを意味します。しかし反乱のスピードに対応が間に合わず、ウィレムが3州の州総督に再任されてしまいます。
その後ゾイデル海の海戦に提督として参戦し、敗れて捕虜となります。「ヘントの和平」を期に、マルニクス・ファン・シント=アルデホンデと捕虜交換で解放されますが、そのままウィレムのもとに留まりました。交渉でフレーデンベルク等の街を議会側に投降させるなどして活躍し、また、将軍として1578年陸戦に参加し、ジャンブルーの戦いでパルマ公に敗れたものの、レイメーナムの戦いではアウストリア公ドン・ファンを破っています。その後は退役し、その年のうちにアントウェルペンで亡くなったようです。
マルティン=シェンク・フォン・ニデッゲン Martin Schenk von Nideggen
- アフェルデン/ブレイエンベーク卿 Heer van Afferden en Bleijenbeek
- 生年: 1540-43頃 ゴッホ(独)
- 没年/埋葬地: 1589/8/10 ネイメーヘン/聖ステファヌス教会(蘭)
生涯
野心と欲の強い、トリックと冒険が大好きな、まさに傭兵気質の軍人。けっこうな変節漢なのに、当時も今もそれなりに人気があるようです。
はじめ、オランイェ公ウィレム一世の軍に志願しますが、分け前の件でヘルデルラント議会と揉め事を起こし、不満をためていったようです。1578年のジャンブルーの戦いに敗れると、その足でスペインのキャンプを訪れ、スペイン軍に加わります。それから4年間は、レンネンベルフ伯らに従って、フロニンゲン、デルフゼイル、ブレダ、エイントホーフェンなどを攻略しました。
1585年、今度はやはりスペイン軍の自分への扱いに不満を持ち、再度反乱軍側に寝返ります。そしてそのままケルン戦争に介入し、略奪を働きながらラインラントを移動しました。このとき、ヴェアルの街では塩を運ぶ荷馬車に兵士を隠して奇襲をおこなっており、これがもしかしたら、後の「ブレダの泥炭船」のヒントになっているかもしれません。ここで得た戦利品をオランダに持ち帰り、当時エリザベス一世の名代として総督職を務めていたレスター伯からナイトの称号を与えられています。
1586年から翌年にかけて、ウェールズ人将校ロジャー・ウィリアムズと一緒に再度ケルン戦争に介入し、ライン川・ワール川合流地点にシェンケンシャンツ(シェンク砦)を建設しました。ここはこの後八十年戦争期間を通して重要拠点のひとつとなります。
1588年、今度はフリースラント戦線に参加しようと考えたシェンクは、その途上、船でネイメーヘン付近を通りかかります。このとき、川に面した建物の窓から街に侵入して奇襲で街を攻略してみようと企みますが、守備兵に見つかり一斉射撃を浴びて慌てて逃げる羽目になりました。そのときシェンクは川に投げ出され、カナヅチの上に重い鎧を着ていたせいで、そのまま溺死してしまいました。数日後河岸に上がった遺体は、スペイン人によって四つ裂きにされ、四肢は街の四ヶ所の門に吊るし、首は槍の穂先に刺されて晒されました。
この2年後、ナッサウ伯マウリッツはネイメーヘンを開城させたとき、火薬庫の側に打ち捨てられていたシェンクの遺体を掘り起こして、聖ステファヌス教会へ埋葬しました。
さらに後、ナッサウ=ジーゲン侯ヨハン=マウリッツは、ネイメーヘン市が保管していたシェンクの鎧をクレーフェに持ち出し、自分のコレクションのひとつとして所有していました。しかしこれはフランス革命の時期にフランス兵によって破壊されてしまったようです。