十二年休戦条約 Twaalfjarig Bestand

Paris - Musée du Louvre - Adriaen Pietersz van de Venne - Allégorie de la trève de 1609 - INV 1924 - 001

van de Venne (1610s) 「十二年休戦条約」の寓意画 In Wikimedia Commons

「八十年戦争」は1568年から1648年の80年間に行われたスペインとネーデルランド間の一連の争いです。しかし、80年間常に争い続けていたわけではなく、ちょうど半世紀が過ぎた頃に「公式な」12年間の休戦を挟んでいます。この休戦は争い合う当事者二者による文書化された合意です。

「反乱」の開始から半世紀も経っているため既に世代は変わり、中心となる人物も団体も、またそれぞれの力関係も異なっています。スペイン側は本国のマドリードから外に出ないフェリペ三世が主権者ですが、その姉夫婦であるオーストリア大公夫妻が南ネーデルランド執政として最前線に執政府を置いています。オランダ側もウィレム一世あるいは外国国王家を主権者に立てることに頓挫し、連邦議会が成立してから既に20年、その間に政府と軍部の間に徐々に溝が出来始めていました。

最初に「休戦」を申し入れたのはスペインの側からになります。その最大の理由は資金の行き詰まりです。複数国との度重なる戦争や新大陸の銀の価格の下落によってスペインは何度も国家破産を宣言し、膠着状態のまま解決の見えないネーデルランドが重荷になっていました。オランダ側も同じで、攻囲戦は年々費用のかかるものになっていき、1597年にマウリッツ公が連邦に組み入れた街の多くが1606年にスピノラ侯によって奪還されてしまったことも歳入に大きな影響を与えていました。したがって、この和平を推進したのは南ネーデルランド執政府と連邦議会ということになります。

Allegorie op het Bestand en de vereniging der partijen, 1609, RP-P-BI-4189

van den Bossche (1609) 「十二年休戦条約」の寓意画 In Wikimedia Commons この手の寓意画にはめずらしくフレデリク=ヘンドリクが描かれています。

逆にそれぞれ反対派も大きな勢力でした。オランダ側の筆頭はマウリッツ公(ナッサウ伯マウリッツ)。未来のナポレオンと同じジレンマで、戦争に勝ち続けなければ存在意義そのものがなくなってしまうためです。とくに州総督マウリッツの場合は皇帝ナポレオンとは違い、単なる軍事官吏であり政治的には申し訳程度の権限(代表権のない一票と恩赦権)しか有していません。スペイン側の筆頭はフェリペ三世国王その人。停戦そのものへの反対ではないものの、現場を知らないことから、条件面でなかなか折れようとしませんでした。

また、休戦満了の期限が近づくと、今度は両者に休戦継続派と戦争再開派が現れて内紛を起こす、という図式が繰り返されます。休戦中には両国がユーリヒ=クレーフェ継承戦争に巻き込まれ、遠くボヘミアでは三十年戦争が始まっており、国際的な環境が大きく変わりつつありました。さらにオランダ側は宗教論争に端を発するマウリッツのクーデターという政治の一大転換を経験しています。

派閥や論争が盛んになったこの時期、パンフレットや寓意画も多作されています。この記事の画像にも政治的絵画を多数ピックアップしました。

フェーズ1: 「休戦」前の「停戦」

Onderhandelingen over een bestand tussen pater Jan Neyen, prins Maurits en Johan van Oldenbarnevelt te Den Haag, 1607 Pater Neyen te 's Hage (titel op object), RP-P-OB-73.745

Reckleben (1857) ネイエンの極秘訪問(歴史画) In Wikimedia Commons

1606年といえば、スペインの司令官アンブロジオ・スピノラ将軍がオランダ東部の街を立て続けに奪還し、オランダ側が守勢に立った時期でもありました。しかし既にその以前から、つまりは1606年の初めから、南ネーデルランド執政府内では和平案が浮上していました。いかにスピノラ家が莫大な資産を持つジェノヴァの銀行家といえど、一度も執政府から補填が無く立て替えている軍費は、確実にその支払能力を上回っていました。

執政であるオーストリア大公アルプレヒト七世およびイザベラ夫妻は、神父のヤン・ネイエンを水面下でオランダに派遣し、まずはオランダ側の意向を探ることにしました。ネイエンはもともとカルヴァン派として育った人物ですが、カトリックに改宗してアントウェルペンでフランシスコ会士となっていました。オランダにいる母親を訪ねるという名目のもと密かにハーグを訪れたネイエンは、マウリッツと法律顧問ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトに非公式で対面し、執政府の和平の意図を伝えます(ネイエンはカトリックになった時期が1588年と比較的早いので、マウリッツとの面識は微妙ですが、オルデンバルネフェルトと既知だった可能性は高いです)。

ネイエンを通じて、条件によっては交渉の余地がある、とのオランダ側の意思を確かめたアルプレヒト大公は、ここで初めて本国のフェリペ三世国王に休戦の可能性を伝え、交渉の許可を得ました。その間ネイエンはブリュッセルとハーグを数回往復し、まずは1607年4月12日、より長期な休戦の交渉のための8カ月間停戦(5月4日発効)を取り付けることに成功しました。この8カ月合意は、交渉が難航するにしたがって数回延長されることになります。

ちなみに、「ジブラルタル海戦(1607)」でスペイン海軍が壊滅的なダメージを受けたことがこの一時停戦の後押しをした、とする資料もありましたが、ジブラルタル海戦は4月25日なので、発効日よりは前ではあるものの停戦自体は合意した後のことです。

フェーズ2: 5人の使節の訪蘭

De voorspoed die de vrede de Nederlanden brengen zal, 1608 Waere uytbeelding klaer eenes oprechten vrede Die wel te wenschen waer in elck Landt en stede, RP-P-OB-80.746A

Pieter Serwouters (1608) 和平推進派のパンフレット In Wikimedia Commons

この合意が形になったことで、それぞれの側で推進派と反対派が現れてくることになります。

<スペイン>
推進派: 南ネーデルランド執政府
反対派: スペイン国王

フェリペ二世時代から続いていたことですが、国王は基本的に執政府を信用していません。執政府がスペインからの独立性を主張する疑念に常に囚われており、特に執政が軍事的に有能で人気のある王族の場合(ドン・ファン、アレサンドロ・ファルネーゼ、枢機卿王子フェルナンドなど)、執政府の敵は外憂よりも国王からの疑惑や嫉視でした。国王は休戦自体は経済的理由からやむを得ないとしましたが、とくにオランダ側の東インド貿易からの撤退とカトリック礼拝の自由化の2点については必須の条件としました。

<オランダ>
推進派: 連邦議会、フロニンゲン州・オーフェルエイセル州・ヘルデルラント州(東部国境地帯の各州)、ホラント州・フリースラント州の貿易商
反対派: 州総督、ゼーラント州(南部国境)、狂信的カルヴァン派、ホラント州・ゼーラント州の貿易商

推進派のうち常に戦場となってきた東部諸州は厭戦、反対派のうち未だ国境が脅かされているゼーラントとカトリックの徹底排除を謳うカルヴァン派が抗戦、というのはわかりやすい理由です。商人たちの意見は分かれました。戦争のほうが損害が大きいと考える商人(主に旧来の欧州内貿易)と、スペインからの搾取を利益の柱としている商人(主に新世界・アジア貿易)では温度差があります。

Aankomst van de vijf Spaanse ambassadeurs te Rijswijk, februari 1608

Simon Frisius (1608) マウリッツ公とスピノラ侯の邂逅 In Wikimedia Commons

1608年1月末、南ネーデルランド執政府によって派遣された5人の交渉人による使節団がハーグに到着し、交渉は両当事者による正式交渉の性格を持つことになりました。マドリードの国王からの直接の使節は送られなかったため、執政府の使節団はスペイン国王の代表としても交渉する権限が与えられていました。

  • ロス=バルバセス侯アンブロジオ・スピノラ …本来主戦派だが資金事由でやむを得ず使節となる
  • ジャン・リカルド …仏西戦争の休戦条約(1596)および英西戦争の休戦条約(1604)を成立させた実績のある外交官
  • ヤン・ネイエン …事前交渉から引き続き使節団の一員となる
  • ジャン・ド・マンシシドール …スペインの政府高官、要職を歴任しこの時は執政府の軍事長官を務める
  • ルイ・フェルレイケン …ジャン・リカルドと両休戦条約時に同席、執政府国務会議・枢密院メンバー

スピノラとマウリッツが直接出会ったのはこの時が初めてです。マウリッツはじめナッサウ伯たちがスピノラをハーグ郊外で出迎えた図は当時のパンフレットにも刷られ、歴史画の題材にもよく使われています。どの絵でも両者ともに帽子を脱いでのあいさつが描かれています。実質的に交渉を仕切るのはベテランのジャン・リカルドですが、貴族であるスピノラが名目上の代表者とされました。

De opening van de nieuwe audiëntiezaal van de Staten-Generaal (Trêveszaal), 1697 De groote gehoor-zaal in Den Haag, in den welken de Heeren Staaten Generaal der Vereenigde Nederlanden de gesandten ontfangen, en hunne ve, RP-P-1998-608

Daniël Marot (I) (1697) 「条約の間」 In Wikimedia Commons 90年くらい後の版画。壁には左からウィレム一世、マウリッツ、フレデリク=ヘンドリク、ウィレム二世を描いた絵画が掛けられています。

交渉はハーグのビネンホフ、「条約の間 Trêveszaal」と呼ばれる部屋(今もあります)を借り切って1608年2月7日から開催されました。マウリッツがこの会議への一切の関与を拒否したため、オランダ側の代表のポジションは従兄のナッサウ=ディレンブルク伯ウィレム=ローデウェイクに託されました。もちろんオランダ側でも実際に交渉のリーダーシップをとるのはヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトとその影響下にある代表団です。

この両当事者のほか、周辺諸国からも代表団が送られました。メディエーター(仲介者・調整者)としての役割です。このほか、オブザーバーとしてケルン選帝侯とユーリヒ公の代理人が送られました。

  • フランス: アンリ四世の腹心ピエール・ジャナン(ナントの勅令やサヴォイアとの和平に実績あり)
  • イングランド: 駐蘭大使ラルフ・ウィンウッド(スペイン超絶アンチ)
  • デンマーク: ヤコプ・ウルフェルト(帰国後宰相となる)
  • 他諸国: プファルツ、ブランデンブルク、アンスバッハ、ヘッセン=カッセルの仲介者

あまりに会議が長引いたため、最後まで残っていたのは英仏のみだったとのことです。

フェーズ3: 経過

De strijd om de Gouden Stok, 1608, RP-P-OB-80.740

Unknown (1608) 和平反対派のパンフレット In Wikimedia Commons アンリ四世とマウリッツの見ている前で、スペイン人とオランダ人が黄金の棒(東インド貿易)を引き合っています

交渉は条件について合意に至らず、8月25日に一度破綻しました。

両当事者とも、東アジア貿易と信教の自由について歩み寄ろうとはしませんでした。スペインはオランダ人による赤道以南のあらゆる航行の中止を要求しました。オランダ東インド会社はまだ設立されたばかりで、多額の投資のリターンはまだ充分ではなく、主にその出資者はこの点に強硬に反対しました。それどころか、ちょうど新世界でスペイン船からの私掠を主業にする西インド会社の設立も計画されていたところでした。グロティウスが『自由海論』を執筆したのも、このような背景に沿ったものです。同様にスペインはオランダ内のカトリック教徒の信教の自由も要求しましたが、これはこれでカルヴァン派には到底受け入れられないものでした。オランダにおけるカルヴァン派は政治の中心的な役割を果たしていたものの、信者の絶対数としてはカトリックも未だ多数派の一角を占めており、その復権は脅威にしかなりませんでした。交渉決裂を受け、9月、いったんスペイン使節団は帰国の途につきます。

パンフレットによる誹謗中傷合戦も華やかになりました。裏工作もたびたび行われました。とくにフランス大使のジャナンは、国王アンリ四世の企み(マウリッツにオランダの主権と多額の賄賂を提供して和平に合意させる)によってナッサウ家を懐柔しようとしましたが、これは逆効果でマウリッツの怒りを買い、マウリッツは急遽ホラント議会に乗り込んで議員一人一人に賛成か反対か表明するよう圧力をかけるようなことまで行いました。このときに取沙汰されたスローガン「オランイェか、スペインか Oranje of Spanje」は、パンフレットの格好の材料になりました。

一度は和平交渉の決裂をもって、反対派が勝利したかと思われました。しかしここで英仏の仲介により、当初の「永続的」和平から、「長期休戦」に舵を切って交渉は続けられることになります。舞台もハーグから南のベルヘン=オプ=ゾームへ移ります。協議の末、休戦の期間は「12年」と設定されました。

Abraham janssens peace and plenty

Abraham Janssens (1612) 「十二年休戦条約」の寓意画 In Wikimedia Commons

ここからの交渉は、今までとは対照的に奇妙なほどスムーズに進みます。オルデンバルネフェルトが、東インドでの権利は手放そうとしなかったものの、西インド会社の設立については白紙にする、という妥協案を取ったことは明らかです。また、スペイン国王を説得するため、代議員がマドリードとの間を二往復したことも事実です。アルプレヒト大公はマドリードの譲歩さえ得られれば、北ネーデルランドの主権を永久に放棄することや、オランダのカトリック教徒を見捨てることも応諾するつもりでいました。しかし何よりも、反対派の牙城と思われていたマウリッツが急に態度を軟化させたことが大きな進展となります。

マウリッツの異母兄であるオランイェ公フィリップス=ウィレムが1608年夏、交渉決裂に先駆けてハーグに現れました。ちょうどマウリッツがハーグに不在だったため、彼らは秋に初めてドルトレヒトで顔を合わせることになります。ここで和平に伴う没収地返還、つまり父ウィレム一世の遺産の返還が話題に上がり、皮算用に目途がついたようです。フランス大使ジャナンは当初、マウリッツの懐柔のため「必ずなびくであろう莫大な買収額」を提示しましたが、結果論としてそんなものはマウリッツにとっては所詮はした金で、領地返還による土地収入・休戦期間中も保障される軍税・年金の増額・東インド会社の配当の割増、等、これら巨額の金品を一族分周到に巻き上げた結果、金銭的にはナッサウ家の一人勝ちの様相を呈してきました。買収された、というより、買収されにいった、というところでしょうか。この休戦の2年後にスピノラ侯が破産するのとはまったく対照的です。

Het Twaalfjarig Bestand in Antwerpen afgekondigd - Twelve Years' Truce declared in Antwerp (Frans Hogenberg)

Simon Frisius (1613-1615) アントウェルペンでの条約公布 In Wikimedia Commons

1609年3月28日、アントウェルペン市庁舎で署名に向けての正式な最終協議が再開されます。わずかその10日後、1609年4月9日に条約は調印されました。

ベルヘン=オプ=ゾームでの会合は少なくとも3月24日までは続きました。というのもこの日、マウリッツは交渉の場に現れ、自分と義母ルイーズ・ド・コリニー、弟フレデリク=ヘンドリク、従兄ウィレム=ローデウェイクの4人に多大な経済的便宜を図ってくれたことに対し、仰々しいまでに感謝の意を述べたそうです。さらにアントウェルペンでの協議の場で、マウリッツは条約上への署名(本人のではなくウィレム=ローデウェイクの署名ですが)のために、執政夫妻にさらに金額の積み増しを要求していました。最後の最後の段階でアルプレヒト大公は署名を、それでも幾分値切った価格の30万ポンド(仮に1万円/ポンドとしても30億円相当でしょうか…)で買わされる羽目になったのです。

フェーズ4: 条約締結

NL-HaNA 1.01.02 12588.19 09 Traktaat Twaalfjarig Bestand

十二年休戦条約 (1612) 最終頁サイン部分 In Wikimedia Commons
左1行めがスピノラ侯、右1行めがウィレム=ローデウェィク、右5行めがオルデンバルネフェルトのサイン

条約の前文には、この条約の当事者として、スペイン国王の名代としてのアルプレヒト大公およびイザベラ大公妃、そしてネーデルランド連邦共和国連邦議会が明記されています。連邦議会が当事者となった条約には1596年の三国同盟がありますが、ここでは戦争相手国スペインによって、「議会 Staten Generaal」が初めて条約締結の相手として認められたことを示しています。この条約をもってオランダの「独立」と定義する研究者がいるのもそのためです。

条約は38条。スペイン側は使節団5名、オランダ側は9名が前文に明記され末尾に自筆サインをしています。スペインの筆頭はアンブロジオ・スピノラ候、オランダの筆頭はナッサウ伯ウィレム=ローデウェィク、オルデンバルネフェルトは4番手です。

Portretten van de achttien deelnemers bij de vredesonderhandelingen, 1608 Ware afbeelding der h. ambassadeurs ende gecomitteerde tot het bestant (titel op object), RP-P-OB-80.737

Unknown (1614-1616) 「十二年休戦条約」の署名者たち In Wikimedia Commons

大まかな内容については以下に列記します。

  • スペインは連邦共和国を独立国家として扱うことに合意する。(ただしその文言は曖昧で、オランダ語版とフランス語版では解釈に幅があった。)
  • すべての敵対行為は12年間中止されなければならない。
  • 両当事者は、合意の日の時点で支配している領土で主権を行使する。
  • 両当事者に向けた軍隊は徴兵されず、全ての人質は解放される。
  • 私掠は禁じられ、両当事者は違法行為を抑止する。
  • 両当事者間での貿易の再開が認められる。オランダの商人や船員は、スペインおよび南ネーデルランドで同様の保護を受ける。
  • オランダはフランドル海岸の封鎖は解除するが、スヘルデ川の封鎖は続ける。
  • 南ネーデルランドからの亡命者は、カトリックに改宗すれば帰国することができる。
  • 戦争中に押収された土地は返還されるか、その価値が補償される。
  • 東インドとの貿易については規定されていない。
  • オランダのカトリック教徒や南ネーデルランドのプロテスタントの扱いは現状維持となる。(積極的に迫害はされないが、宗教を公言することはできず、公務からも除外される。)

国際的なインパクトは、スペインよりも共和国にとって大きかったといえます。この条約により連邦議会は「主権体」として国際的に承認されたとみなされました。イングランドとフランスは正式にオランダの大使を迎え、オスマン帝国(1610年)、モロッコ(1610年12月24日)、ヴェネツィア共和国(1619年12月31日)とも順次外交関係が樹立されることになります。

アルバ公の時代に没収された土地や財産の返還に関しては、オランダ国内の小貴族たちが恩恵を受けることになりますが、条約締結から3ヶ月も経たない6月27日、ナッサウ家でも早速返還された財産分与の家族会議が行われ、オランイェ公フィリップス=ウィレム、マウリッツ、フレデリク=ヘンドリクの3人が亡き父ウィレム一世の遺産相続に決着をつけています。

休戦中の出来事(1609-1621)

Bataefsche Spiegel - Allegorie op de vrede (Claes Jansz. Visscher, 1615)

Visscher II (1615) 休戦継続の寓意 In Wikimedia Commons

以下は別記事に譲ります。蘭西双方とも、「自分たちの側から休戦を破る」ことを慎重に避けたため、12年間のうちに当事者同士の直接的な戦闘行為は行われていません。

関連記事

「休戦」の終了

Allegorie op het afwijzen van de vredesvoorstellen gedaan door Peckius namens de Spaanse koning, 1621 Ao. 1621 Petri Peccy gedaen Vertooch (titel op object), RP-P-OB-80.971

van den Bremden (1624-1626) 休戦終了の寓意画 In Wikimedia Commons 真ん中でオリーブを運んでいるのがペキウス

休戦の継続は南北双方で議題に上り、条約締結交渉時と同様、両者にそれぞれ戦争再開派と休戦継続派がいたようです。南ネーデルランドからは永続的な和平の使者として、大公枢密院の顧問官であるペキウス二世が派遣されてきました。オランダでは一般的には戦争再開の機運のほうが強く、ペキウスはハーグへの途上にも市民による妨害を受けました。また、その継続案があまりにスペイン側に偏っているとして(ここから10年以上後のイザベラの和平案も同様に完全スペイン側有利のものでしたが)、一顧だにされませんでした。北部が再度スペイン王権に属するべきという条件は論外として、東インド貿易の条件、宗教をめぐる条件も締結前に立ち戻り完全にスペイン有利でした。とくに宗教に関しては、南ネーデルランドでのプロテスタントの権利は認められないのに反して、オランダ側へはカトリックとプロテスタントの同等の権利を求めていました。

敏腕交渉人リカルドを亡くしていたことも大きいですが、加えて、一方の当事者のフェリペ三世が休戦終了の直前の1621年3月末に、南ネーデルランド執政のアルプレヒト七世が同年7月に、相次いで死去した影響も無関係ではありません。アルプレヒト大公には嫡子が無かったため、その死と同時に南ネーデルランドの統治権は本国の国王(フェリペ四世)に戻りました。南ネーデルランドは元はフェリペ二世から娘のイザベラに下賜されたものでしたが、執政としての立場は維持されたものの、その権限は縮小されました。フェリペ三世の死後、スペイン宮廷ではフェリペ四世のもとでオリバーレス公伯爵が台頭してくることになりますが、彼を筆頭に本国が一貫して戦争継続を指向したこともあり、この後イザベラが何度か主導しようとした和平については結局実現することはありませんでした。

1621年4月9日、十二年休戦条約は失効し、戦争が再開されます。折しもその1週間後、帝国アハト刑を受け亡命中のプファルツ選帝侯フリードリヒ五世がハーグに到着し、オランダも三十年戦争の枠内に組み込まれていくことになります。

De zielenvisserij - Fishing for souls (Adriaen Pietersz. van de Venne)

van de Venne (1614) 「魂の救済」 In Wikimedia Commons トップの絵画と対になる休戦の寓意画。現サイトのメインイメージにもしています。

リファレンス

  • 佐藤弘幸『図説 オランダの歴史』、河出書房新社、2012年
  • 桜田三津夫『物語 オランダの歴史』、中公新書、2017年
  • 森田安一編『スイス・ベネルクス史(世界各国史)』、山川出版社、1998年
  • 川口博『身分制国家とネーデルランドの反乱』、彩流社、1995年
  • 栗原福也「十六・十七世紀の西ヨーロッパ諸国 二 ネーデルラント連邦共和国」『岩波講座 世界歴史(旧版)<15>近代2』、岩波書店、1969年
  • Motley, “United Netherlands”
  • Motley, “Life and Death”
  • 1911 Encyclopædia Britannica
  • Groenveld (2009) Het Twaalfjarig Bestand, 1609-1621, Haags Historisch Museum.