プファルツ選帝侯フリードリヒ五世と妻エリザベスにはたくさんの子女がいますが、全員ほぼ例外なく美男美女です。いずれも三十年戦争初期の生まれで、両親の亡命生活に大きな影響を受けています。さらに、1632年に父フリードリヒ五世が早世し、母エリザベスとの関係が主になったことも、彼らへの影響を強めました。ほとんどの子供たちが、ハーグに住む母親との仲が悪くなるか、家族内に嫌気が差して、それぞれオランダを離れ別々の国に活動の場を移しています。
も参照ください。
リファレンス
- 山田弘明(訳)『デカルト=エリザベト往復書簡、講談社、2001年
- ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
- Digitaal Vrouwenlexicon van Nederland Elisabeth van de Palts
- Digitaal Vrouwenlexicon van Nederland Louise Hollandine prinses van de Palts
- Digitaal Vrouwenlexicon van Nederland Sophie van de Palts
エリーザベト Elisabeth von der Pfalz
- プファルツ選帝侯女(ボヘミア王女) Prinzessin von der Pfalz、ヘルフォルト・ルター派修道院長 Abtissin von Herford
- 生年: 1618/12/16 ハイデルベルク(独)
- 没年/埋葬地: 1680/2/11 ヘルフォルト(独)
生涯
プファルツ選帝侯フリードリヒ五世とイングランド王女エリザベスの長女。母親と名前も同じ、顔もそっくりで、聡明な点も似ています。その割にはあまり折り合いは良くなかったようです(同類嫌悪?)。幼年期は、各地を流転している両親のもとではなく、ベルリンの祖母(ルイーゼ=ユリアナ・ファン・ナッサウ)や叔母のもとで育てられていたため、その後も頻繁にブランデンブルクを訪れるなど、ベルリンとの関係のほうが本人にとって近しいものだったのかもしれません。1627年にオランダに戻り、レイデン大学で勉強しながらハーグの両親のもとで暮らしました。
何よりもルネ・デカルトとの数十通にわたる往復書簡(邦訳もあります)で有名です。6ヶ国語を操り、「ギリシャ人」と呼ばれるほど哲学に造詣の深かったエリーザベトは、デカルトともかなり突っ込んだ議論をしています。この文通はデカルトがスウェーデンで客死するまで続きました。ちょうどデカルトの死と、長兄カール=ルートヴィヒが選帝侯位を回復した時期が重なり、エリーザベトはいったん兄の居るハイデルベルクに移り住みますが、兄とも喧嘩別れしてしばらく親戚のもとを転々とすることになります。生まれ育ちが幸福ではなく、勉強のしすぎもあって極度の厭世主義者であり、あまり周囲とうまくやっていけなかったのかもしれません。
1661年からヘルフォルト修道院に入り、1667年以降は修道院長。改革派からルター派に改宗しています。修道院の図書室を拡張し、女性の学問を奨励しました。この頃からさらに神秘主義に傾倒するようになり、迫害に遭っていたラバディスト、クエーカーなどの人々を修道院にかくまったりもしています。
ルイーゼ=ホランディーネ Luise Hollandine von der Pfalz
- プファルツ選帝侯女(ボヘミア王女)Prinzessin von der Pfalz、モビュイソン・シトー会修道院長 Abbesses de Abbaye de Maubuisson
- 生年: 1622/4/18 ハーグ(蘭)
- 没年/埋葬地: 1709/2/11 モビュイソン(仏)
生涯
本名ルイーゼ=マリア。両親がオランダに移住して初めて生まれた子供だったため、「オランダ(ホランディーネ)」のあだ名で呼ばれました。(これも兄のモーリッツの名づけ同様に母エリザベスの政治的意図によるものです)。
母エリザベスは子供たちに絵画や音楽を習わせましたが、中でも絵画に才能を示したのが、ループレヒトとホランディーネです。貴族なのであくまで「アマチュア」(絵を売って金銭を得る「プロ」ではないという意味)ですが、ホントホルストに師事し、とくに肖像画には非凡な才能を見せました。妹ゾフィーの肖像も描いています。ただ、このような性格の絵画なので市場に出回ることはなく、親戚をはじめとした貴族の家に飾られました。また、自分で習わせておきながら、母エリザベスは、娘があまりにも絵画にのめり込むことを快く思わなかったようです。
従兄でもあるブランデンブルク選帝侯フリードリヒ一世ヴィルヘルムとの縁談もありましたが、紆余曲折あった結果、オランイェ公の長女ヘンリエッタ=アマーリアがフリードリヒと結婚します。その後1657年、ホランディーネはフランスに移り住むと、弟エドワルトの影響でカトリックに改宗しました。このことが原因で、母エリザベスとの仲は完全に破綻してしまいます。さらに伯母ヘンリエッタ=マリア(チャールズ一世妃でルイ十三世の妹)の紹介でフランス国王ルイ十四世の支援を得、1659年にモビュイソン修道院に入り、1664年からは院長を務めました。院長となっても変わらず絵を描き続けました。修道院には伯母ヘンリエッタ=マリアのほか、姪(兄カール=ルートヴィヒの娘)のリーゼロッテや、同じく姪(妹ゾフィーの娘)のゾフィー=シャルロッテなどが頻繁に訪れています。ほかにもオランダの連邦議会、ルイ十四世両者から年金を受け取り、妹ゾフィーからも金銭的な支援を受けるなど、人望は非常に厚かった人物と思われます。
ヘンリエッテ=マリー Henriette Marie von der Pfalz
- プファルツ選帝侯女(ボヘミア王女)Prinzessin von der Pfalz
- 生年: 1626/7/17 ハーグ(蘭)
- 没年/埋葬地: 1651/9/18 シャーロシュパタク(ハンガリー)/聖ミカエル教会 アルバ・ユリア(ルーマニア)
生涯
三女。他の姉妹と違わず才色兼備だったようです。ハーグで生まれ育ち、姉のエリーザベトと共にベルリンの叔母エリーザベト=シャルロッテのもとに1646年に転居しました。
この叔母の計らいで、カルヴァン派のトランシルヴァニア公子ラーコーツィ・ジグモンドとの縁談が舞い込みます。しかしヘンリエッテ=マリーはこれを頑なに拒否し、病気にまでなってしまいました。もともと体も弱く、1647年のエリーザベトからデカルトへの書簡でも、「私の妹が重病で、死ぬかと思うほどでした」と書かれています。1651年4月に結局はトランシルヴァニアへ嫁ぐものの、半年後の9月には病死してしまいます。その夫も翌年に死亡し、一緒に首都ジュラフェヘールヴァール(現アルバ・ユリア)に葬られています。
ハノーバー選帝侯妃ゾフィー Sophie von der Pfalz (Sophie von Hannover)
- プファルツ選帝侯女(ボヘミア王女)Prinzessin von der Pfalz、ハノーバー選帝侯妃 Prinzessin von Hannover
- 生年: 1630/10/14 ハーグ(蘭)
- 没年/埋葬地: 1714//6/8 ハノーヴァー(独)
生涯
プファルツ選帝侯フリードリヒ五世と妻エリザベスの末子。生まれてからずっとハーグで育ちました。姉2人が未婚、すぐ上の姉も結婚数ヵ月後に死亡と、姉妹たちが結婚に恵まれなかった中、唯一タナボタ式に結婚で運の開けた王女。とはいえ結婚が決まるまでには、婚約破棄などやはり紆余曲折があり、1658年にブラウンシュヴァイク=カレンベルク侯の四男エルンスト・アウグストと結婚します。最終的には、継承者たちの相次ぐ死亡などにより、夫はハノーヴァー選帝侯を新設し、ゾフィー自身はイングランド国王の推定相続人になることになりました。ゾフィーの長男ゲオルクが、のちジョージ一世としてハノーヴァー朝を興すことになります。八十年戦争とは既に半世紀以上も離れた後の世の話になるので詳述はしません。
きょうだいたちが戦争・亡命・勘当・家出・結婚などでハーグを離れていったあと、最後まで母親のもとに残ったことになります。末妹のためか、きょうだいたちとは総じて仲が良く、とくに次姉ルイーゼ=ホランディーネとの交流は、姉がカトリックに改宗した後も変わらず続きました。上の肖像画は、姉ルイーゼ=ホランディーネが描いたゾフィーです。