プファルツ選帝侯フリードリヒ五世の息子たち

Cornelis van Poelenburch - Children of Frederick V Prince Elector of Pfalz and King of Bohemia - WGA18002

Cornelius van Poelenburgh (1628) 「冬王の王子王女たち」 In Wikimedia Commons

プファルツ選帝侯フリードリヒ五世と妻エリザベスにはたくさんの子女がいますが、全員ほぼ例外なく美男美女です。いずれも三十年戦争初期の生まれで、両親の亡命生活に大きな影響を受けています。さらに、1632年に父フリードリヒ五世が早世し、母エリザベスとの関係が主になったことも、彼らへの影響を強めました。ほとんどの子供たちが、ハーグに住む母親との仲が悪くなるか、家族内に嫌気が差して、それぞれオランダを離れ別々の国に活動の場を移しています。

も参照ください。

リファレンス

  • ウェッジウッド, C.V. (瀬原義生 訳)『ドイツ三十年戦争』刀水書房、2003年
  • 友清理士『イギリス革命史(上)―オランダ戦争とオレンジ公ウイリアム』研究社、2004年

ライン宮中伯フリードリヒ=ハインリヒ Friedrich Heinrich von der Pfalz

Frederick Henry of the Palatine

Unknown (1620s) In Wikimedia Commons

  • ライン宮中伯 Pfalzgraf bei Rhein
  • 生年: 1614/1/1 ハイデルベルク(独)
  • 没年: 1629/1/7 ハーレマーメール(蘭)

生涯

フリードリヒ五世の長男。ジェームズ一世王太子フレデリク=ヘンリー(およびナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク)と同じ名です。

1629年、スペインから財宝を山ほど奪って帰還したピート・ヘインの銀艦隊がアムステルダム港に到着したというので、父親のフリードリヒ五世と2人で見物に出かけます。その途中、ハーレマーメールの海を渡る際、ボートが転覆し、溺死してしまいました。父のフリードリヒ五世はなんとか一命は取り止めましたが、この時の肉体的・精神的なダメージからその死期を早めることになってしまいます。

プファルツ選帝侯カール一世ルートヴィヒ Karl I Ludwig von der Pfalz

Sir Anthony van Dyck - Charles Louis, Elector Palatine - Google Art Project

Anthony van Dyck (1637) In Wikimedia Commons

  • ライン宮中伯 Pfalzgraf bei Rhein、プファルツ選帝侯 Kurfurst von der Pfalz
  • 生年: 1617/12/22 ハイデルベルク(独)
  • 没年/埋葬地: 1680/8/28 エディンゲン(独)/ハイデルベルク 聖霊教会

生涯

長兄であるフリードリヒ=ハインリヒが17歳で溺死したため、次男のカール=ルートヴィヒが跡継ぎとなりました。

準備中です。

* 各国元首その他オランダ以外を主要な活躍の場としている人物については、サイトの主旨上、オランダと直接関わった事項または八十年戦争(三十年戦争)期間中の行動について記載しています。そのため逆に、その人物の大まかな伝記ではあまり出てこないエピソードがメインになることもあるかもしれません。

ライン宮中伯ループレヒト(カンバーランド公ルパート) Ruprecht von der Pfalz, Duke of Cumberland

Portret van Prins Ruprecht (1619-82), paltsgraaf aan de Rijn Rijksmuseum SK-A-3927

Anthony van Dyck (ca.1637) In Wikimedia Commons

  • ライン宮中伯 Pfalzgraf bei Rhein、カンバーランド公 Duke of Cumberland、ホールダーネス伯 Earl of Holderness
  • 生年: 1619/12/27 プラハ(チェコ)
  • 没年/埋葬地: 1682/11/29 ロンドン(英)

生涯

個別記事へ → 「プリンス・ルパートとプリンス・モーリス

ライン宮中伯モーリッツ Moritz von der Pfalz-Simmern

Honthorst - Le Prince Maurice

Gerrit van Honthorst (1640) In Wikimedia Commons

  • ライン宮中伯 Pfalzgraf bei Rhein
  • 生年: 1621/1/6 コストシン(ポーランド)
  • 没年: 1652/9/16 西インド諸島

生涯

個別記事へ → 「プリンス・ルパートとプリンス・モーリス

ライン宮中伯エドワルト Eduard von der Pfalz-Simmern

Honthorst - Portrait of Prince Edward of the Palatinate (1625-1663), three-quarter-length, in armour and a red mantle, a baton in his right hand, before a column, 1750349

Gerard van Honthorst (17th century) In Wikimedia Commons

  • ライン宮中伯 Pfalzgraf bei Rhein
  • 生年: 1625/10/6 ハーグ(蘭)
  • 没年: 1663/3/13 パリ(仏)

生涯

若年期にフランス旅行中(おそらくグランド・ツアーと思われます)に出会ったマントヴァ公女アンナ・ゴンザーガと、1645年に結婚します。妻の影響でカトリックに改宗しました。この結婚と改宗を極秘におこなったことで、母親のエリザベスには勘当され、ウェストファリアで新教側として交渉中の長兄のカール=ルートヴィヒの面目をも丸つぶれにしてしまいます。妻のアンナにとっても、亡命者の五男にすぎないエドワルトとの結婚は歓迎すべきものではなく(アンナの姉はポーランド王妃)、あまり夫婦生活は幸せではなかったようです。

1657年、次姉のルイーゼ=ホランディーネがフランスに亡命してきた際、その支援を行い、姉がカトリックに改宗するきっかけともなりました。エドワルト自身は37歳の若さで亡くなりますが、その生涯のほとんどをパリで過ごしたことになります。

ライン宮中伯フィリップ Philipp von der Pfalz-Simmern

Gerard van Honthorst - Bildnis des Philipp, Prinz von der Pfalz (1627-1650) (wohl) - 9285 - Bavarian State Painting Collections

Gerard van Honthorst (1640) In Wikimedia Commons

  • ライン宮中伯 Pfalzgraf bei Rhein
  • 生年: 1627/9/16 ハーグ(蘭)
  • 没年/埋葬地: 1650/12/16 ルテル(仏)/セダン(仏)

生涯

若年期は、長兄カール=ルートヴィヒの帰国と入れ替わりにフランス宮廷で教育を受けました。ハーグに戻った後、1646年に、次姉のルイーゼ=ホランディーネを侮辱したとして、母エリザベスの取り巻きだったフランス人貴族を往来で殺してしまいます。この事件には長姉エリーザベトも関与していたといわれ、姉エリーザベトはいったんハーグを離れてブランデンブルクの叔母のもとに身を寄せることになりました。フィリップは勘当同然にフランスへ向かい、ロレーヌ軍に士官しましたが、その後すぐにフロンドの乱で命を落としています。母親のエリザベスは、カトリックに改宗したエドワルトの勘当はすぐに解いていますが、フィリップについては自分の息子ではないと公言し、二度とその名を口に出すこともなかったそうです。