対戦国 |
オランダ |
スペイン |
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勝 敗 | ○ | × |
参加者 | オランイェ公マウリッツ マンスフェルト伯エルンスト ブラウンシュヴァイク公クリスティアン ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク ウィレム・ペインセン・ファン・デル=アー ブレーデローデ卿ヨハン=ヴォルフェルト マルケット卿ダニエル・ハルタイング |
ロス=バルバセス侯アンブロジオ・スピノラ ファン・デン=ベルフ伯ヘンドリク ルイス・デ・ベラスコ ( ゴンザロ=フェルナンデス・デ・コルドバ) |
プファルツ遠征の帰り際、鮮やかにユーリヒを開城させたスピノラは、いよいよ照準を共和国に定めた。内応者が街の門を開ける、ただそれだけで済むはずだった作戦の失敗を皮切りに、スピノラは後手後手の対症療法に追われる。一方のマウリッツも、深刻な人員不足には代えられず、悪名高き二人の傭兵隊長を迎え入れたことで、苦々しい思いを隠せずにいた。十二年の休戦を経て、当代きっての司令官二人の直接対決は、互いに精彩を欠いたまま、それぞれ多大な犠牲と不名誉だけを残した。
兄オランイェ公に関していえば、彼の地を救援するため、そしてスピノラ侯と戦うため、毅然として向かわれたことは確かだ。
ナッサウ伯フレデリク=ヘンドリク/”Memoire”
経緯
Unknown (1626) 十二年休戦条約延長交渉の風刺画 In Wikimedia Commons
ゼーラントの玄関口にあたるベルヘン=オプ=ゾームは、アントウェルペンのすぐ北という立地からも、カトリックの住民がまだ多数暮らしていました。そのため街は常に内部に宗教的な対立を抱えており、1621年休戦が明けてすぐ、カトリックの住民が秘密裏に南ネーデルランド執政府に接触を図っています。ロス=バルバセス侯アンブロジオ・スピノラは、休戦終了時には未だプファルツ遠征の最中でしたが、ベルヘン=オプ=ゾームからのこの内応を受け、待ちに待った低地地方戦線再開の最初のターゲットに定めます。一方でオランイェ公マウリッツは、ゼーラント州内にいくつかの領地を世襲領主としての権利で所有しており、ゼーラント州は他の地域以上にオランイェ派が過激な地域でもありました。
ところで、この年1622年は、スピノラ侯も長らく遠征の途にあったプファルツ地方の制圧(ボヘミア・プファルツ戦争)が、いよいよ最終段階となった時期です。元ボヘミア国王(プファルツ選帝侯フリードリヒ五世)は、傭兵隊長マンスフェルト伯エルンストとブラウンシュヴァイク公クリスティアンを雇用して戦いを続けていました。しかし、春からミンゴルスハイム、ヴィンプフェン、ヘーヒスト、そして居城都市ハイデルベルクと、プファルツはことごとく皇帝軍のティリー伯に陥とされていきました。
フランスでも、前年に勃発したロアン公アンリ二世によるユグノーの反乱が、ようやく解決を見せてきた時期になります(1622/10/18 モンペリエ協定)。同時に、リシュリュー枢機卿が頭角を現し始めた時期とも重なります。
スピノラ侯の本国スペインでは、1621年のフェリペ三世からフェリペ四世への代替わりに伴ってレルマ公が失脚し、対共和国主戦派ではありながらスピノラ侯には批判的なオリバーレス公伯爵が寵臣の地位に就きました。さらにスピノラ侯にとっては悪いことに、同じく1621年には、彼の後ろ盾でもあった南ネーデルランド執政アルプレヒト七世が死去しています。
オランダでは1621年4月、休戦終了のわずか5日後、元ボヘミア国王一家の亡命を受け入れていました。1621年から1622年にかけて、このようにヨーロッパ一帯は、元首および政治的有力者の死去や失脚が相次いだうえに三十年戦争が重なり、各地で大きくパワーバランスに変化が生じていました。休戦前にオランダが頼みにしていた外国軍隊のうち、プファルツ派遣中のイングランド軍と自国内乱中のフランス・ユグノー軍を欠いたところに、マンスフェルト伯やブラウンシュヴァイク公が助力を申し出たのは絶妙なタイミングだったといえます。
鉄の秩序を保ってきたオランダ軍が、よりによって規律の欠片もない野盗集団並の「お行儀の悪い」彼らに頼らざるを得なかったのは、このような状況にもよるものです。
フルーリュスの戦い
1622年7月13日、プファルツ選帝侯フリードリヒ五世はマンスフェルト伯エルンストとブラウンシュヴァイク公クリスティアンとの契約を打ち切り、自身は叔父ブイヨン公の居城のセダンに逃れました。雇い主をなくした2人の傭兵隊長は、ちょうど同月18日、ベルヘン=オプ=ゾームが攻囲されたことを知ると、戦役に加わろうとアルザスからエノーを抜けてオランダへ進軍することにします。
ベルヘン=オプ=ゾームでは、カトリック住民たちがスペイン軍を受け入れようといったん城門を開けようとしましたが、反対派のプロテスタント住民がこれを阻止、単純な占領とはいかず通常の攻囲戦の様相となりました。スピノラ侯は、マウリッツ率いる北からの解放軍と、傭兵隊長たち南からの軍隊の挟み撃ちになることを恐れ、スペイン本国に援軍を要請しました。プファルツに展開していたスペイン軍のゴンザロ=フェルナンデス・デ・コルドバ将軍がこれに呼応し、ルクセンブルク経由で傭兵軍を追撃します。8月29日、ブラバントの国境付近で彼らに追いついたコルドバ将軍は、自軍が数で不利なことも考慮し、森に伏兵を潜ませ、自らの中央にはベテランのテルシオを配して正面から戦いを挑みました。
戦闘は5時間に渡り、最終的にはスペイン側の圧勝に終わりました。クリスティアンは5度の騎兵突撃を試みましたが、最後の突撃で左腕に重傷を負います。翌日、敗走する傭兵軍に対し、コルドバ将軍は配下のゴーティエを送って追哨戦を仕掛け、油断していた相手を壊滅に追い込みました。傭兵軍はその数を2/3ほどにまで減らした状態でオランダ入りすることになります。
傭兵隊長たちを雇い入れたのは連邦議会の判断で、マウリッツ自身は彼らを軍内に組み込むことに反対していました。ブラウンシュヴァイク公クリスティアンは、マウリッツの腹心でもあるナッサウ=ディーツ伯エルンスト=カシミールの妻ゾフィー=ヘートヴィヒの実弟です。身内には極甘なマウリッツが反対を表明するほど、彼らが厄介者だったことがよくわかります(といっても1年後には、敗走してきたクリスティアンを再度ハーグに保護することになるのですが)。ちなみにクリスティアンの腕の切断手術はブレダで行われています。
戦闘
ベルヘン=オプ=ゾームの攻囲を始めると、スピノラ将軍は、ファン・デン=ベルフ伯を東部国境方面へ、ルイス・デ・ベラスコ将軍を北部近郊のステーンベルヘンへと、それぞれ別方面に陽動をかけました。マウリッツはまんまとその陽動に乗って東部へ軍を進めましたが、その間にステーンベルヘンが奪取されてしまったことを考慮するに、東部を放置すればそれはそれで国境沿いの街で同じことが起こった可能性もあり、牽制としては必要な動きだったのかもしれません。一方のスピノラ側も、マンスフェルト伯とブラウンシュヴァイク公が北上しているにもかかわらずわざわざ軍を三分するというのは、コルドバ将軍の足止めが効いたため事なきを得たものの、そうでなければ敢えて自分たちを危険にさらしてしまうような、褒められた戦術ではありません。
ステーンベルヘンでは、防衛用に新しい砲を送ってほしいという市長の要請に応え、マウリッツはすぐに5門の砲を手配しました。しかし街の女性たちが大挙してこれを拒否、到着した砲を港に沈めてしまいました。そのせいでステーンベルヘンはベラスコ将軍の砲撃に1日ともたずに開城することになります。
ステーンベルヘンは1590年のマウリッツによる奪還以来、洪水線と要塞は整備されましたが、守備隊は貧弱で砲も当時の古いものが残っているままでした。女性たちが大砲を拒否したのも「そんな物騒なものを街の中に持ち込むな」という理由とのことですから、かなりの平和ボケが蔓延していたものとも思われます。
ベルヘン=オプ=ゾームの防衛は、ペインセン(休戦明け以降、とくにフレデリク=ヘンドリクの攻囲戦で活躍します)を中心に行われたようです。攻囲中、包囲戦の内外での実際の戦闘行為については各所で小競り合いがあっただけとされますが、スペイン側ではスピノラ侯の甥にあたるバプティスト・ドーリア、オランダ側ではここに挙げた肖像(左:スコットランド連隊長トゥネガスク卿ロバート=ヘンダーソン、右:スイス中隊長バルトロメウス=アンドリオ・ヴァルスドルファー)のような古参の将校たちも命を落としています。ちなみに、英蘭戦争期にオランダ提督となる若かりし頃のミヒール・デ・ロイテルも、最初は陸軍の兵士としてこの防衛戦に加わっていました。のち、デ・ウィット兄弟との交流から共和派とみなされるデ・ロイテルですが、もとは典型的なゼーラント人らしくむしろオランイェ主義者でした。
ベルヘン=オプ=ゾームは海からの補給に困ることがないため、攻める側は完全な封鎖戦術は採ることができませんでした。徒に犠牲者を出すばかりでどうにも攻めあぐね、そうこうしているうちに、マウリッツの本隊とマンスフェルト軍・ブラウンシュヴァイク軍の接近の報を受け、冬を前にスピノラは撤退を決意します。撤退とはいえ、フルーリュスの戦いで数を大幅に減らした相手がもたついていたこともあり、スピノラはすべての物資等を持ち帰ることができるほどに悠々と退却することが可能でした。
余波
2万人以上いたスピノラ侯の軍隊は、7000人以上も減っていました(12000人とする説もあり)。5000人が戦死、残りの2000人は脱走・敵前逃亡・投降で、戦闘中でさえ、敵であるベルヘン=オプ=ゾームの城門に向かって武器を捨てて投降し、亡命でも本国強制送還でもいいからとにかくここから去りたいとの申し出が多発したといいます。ここまで士気も規律も下がっているのは、プファルツからの数年がかりの連戦で、スピノラ侯の資金もいよいよ不足し、装備面でも給与面でも相当な低待遇となっていたためでしょう。スピノラのこの戦いでの人員・戦費の運用のまずさが、戦争継続を是とする本国スペインの新国王フェリペ四世とオリバーレス公伯爵をしても、フランドル戦線は費用対効果が低いと判断させる一因となります。
オランダ側でも危惧していたとおり、マンスフェルト伯やブラウンシュヴァイク公の軍隊のあまりのモラルの低さに、各所からクレームが相次ぎました。疫病をまき散らし、給与の支払いが2-3日でも滞ればすぐに所構わず略奪して回るので、辟易したマウリッツは弟のフレデリク=ヘンドリクに対し、彼らと同行して、やるなら南ネーデルランドの諸都市から収奪させるよう命じました。それでも共和国内での被害も尋常なものではなく、両軍隊はわずか3か月で解雇され東フリースラントに放逐されます。なお、ベラスコ将軍に対して開城したステーンベルヘンは、数か月後にマウリッツ自身により奪回されました。
マウリッツが自軍に略奪を厳しく禁じていたのは、人道的な観点は皆無、単に国境内での共食いを避けるためで、兵士個人のポケットではなく国庫への税収を最大限にしたいがためです。そのため、自国の利益に関与しない国境外での略奪はとくに咎めていません。その点フレデリク=ヘンドリクは、休戦前から国境外で略奪目的とも思われる遠征を何度か経験しており、このときも4万ギルダーほど稼いできたようです。
ところで、ベルヘン=オプ=ゾームはもともと、1619年に失脚・処刑された法律顧問ヨハン・ファン・オルデンバルネフェルトの三男、スタウテンブルフ卿ウィレム・ファン・オルデンバルネフェルトが知事職に就いていました。父親の失脚とともに解任されたスタウテンブルフ卿は、休戦後に軍務への復帰依頼があったにもかかわらず、それには応じずに恨みだけを募らせ、1623年、兄フルーネフェルト卿等14人の共謀者ともに、ついにはマウリッツの暗殺計画を実行に移します。 → 詳細は「オランイェ=ナッサウ家事件簿 事件7・マウリッツ暗殺未遂事件」
マウリッツとスピノラの休戦明け最初の直接対決は、このようにお互いデメリットばかりが目立った、不本意なものに終わりました。この後マウリッツはアントウェルペン、スピノラはブレダと、それぞれ長年の悲願であった街の奪取計画に取り掛かることになります。
リファレンス
記事中に挙げた参考URL以外については以下のとおり。なお、映画『アラトリステ』の冒頭のシーンはこのベルヘン=オプ=ゾーム攻囲戦です。
- Motley, “Life and Death”
- Kikkert, “Maurits”
- Grattan, “The History of the Netherlands”
- Wilson, “Thirty Years War”
- Picart, “Memoires”